home>祈り>アレオパゴスの祈り>2008年11月

アレオパゴスの祈り

バックナンバー

アレオパゴスの祈り 2008年11月1日


今月、11月24日に長崎で行われる「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が間近に迫ってきました。先月と今月の「アレオパゴスの祈り」は、聖パウロの年に日本の教会に与えられる特別の恵みである188の殉教者の列福を思い、聖パウロの生き方、それに共通するキリストへの愛の証しを生きた殉教者をご紹介しながら祈っています。

パウロ

また、カトリック教会では11月を「死者の月」として、亡くなった方々を思い出し、神さまの憐れみによって永遠のやすらぎを得ることができるよう祈っています。特に明日の11月2日は、「死者の日」として亡くなったすべての人を記念し、イエス・キリストの復活のいのちにあづかることができるようにミサが捧げられます。今晩のお祈りの中で、聖パウロと殉教者の取り次ぎを求めながら亡くなった人々のために祈りましょう。

(沈黙)

後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。

パウロはキリストのために、ただひたすらみ言葉をのべ伝えました。テモテへの第2の手紙の大部分は、獄中で刑の執行を待っていたと思われるパウロが、エフェソにいる愛する弟子テモテに送った手紙です。パウロの霊的遺言と言われている箇所を聞きましょう。

使徒パウロのテモテへの手紙2 4.2~8

御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄光を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
 

パウロはいつ、どこで捕らえられたのでしょうか。伝説によると、トロアスのカルポという人のところに泊まっていて、突然捕らえられ、着のみ着のまま、マントさえも手にすることができないで連れていかれたと言われています。

ローマに連れて来られて、今回投げ込まれたのは、以前の捕らわれのように兵営の近くに借りた家ではなく、重罪犯人をつなぐマメルティーノの牢獄だったと言われています。じめじめした地下牢の壁にもたれて、寒さに震えながら、やっとのことで愛する弟子に何かを書き残そうとしているパウロの姿が想像できます。

残された時間があとわずかであると悟ったパウロは、手紙の中で愛するテモテに心を込めて書いています。

「わたしは昼も夜も祈りながら、ずっとあなたのことを思っています。別れたときに、あなたが泣いていたのを思い出すと、会いたい気持ちでいっぱいです。あなたの信仰が本物であることを知っているので、思い出すたびに神さまに感謝しないではいられません。この信仰をあなたは、おばあさんとお母さんから受け継いだのでした。わたしの子、テモテよ、キリスト・イエスのめぐみによって強くなりなさい。わたしたちの主イエス・キリストは、死者の中から復活させられたということを思い出しなさい。

わたしはこのように福音を述べ、この福音のために悪人のように鎖につながれて苦しんでいます。けれども神さまのみ言葉は決してつながれません。わたしは、神さまに選ばれた人々のために、喜んでこの苦しみをしのびます。彼らもイエス・キリストから救いと永遠の栄光をいただくことができますように。」

教会の中にずっと伝わってきた伝承によると、紀元67年の6月、パウロは牢から引き出され、ローマ郊外から5キロほど離れたアクアス・サリヴィス、今はトレ・フォンターネと呼ばれている所で、当時の市民法の規定に従って裸にされ、墓標に縛られ、鞭打たれ、刀で頭を切り落とされたとされています。今は、三つの記念聖堂が建ち、トラピストの修道士たちが守っています。遺体が埋葬されたローマ城壁外の墓地の上には、美しい大聖堂が建っています。

『典礼聖歌集』No.128 「主を仰ぎ見て」① ④

パウロ年が開催されているこの年、日本の教会において、ペトロ岐部と187人の殉教者が列福されることは、わたしたちにとって大きな喜びです。彼らは、1603年~1639年の間に、きびしい迫害の時代、多くの苦難の後、命を賭けてキリストを証しし、信仰の道を示してくださった勇気ある殉教者たちです。選ばれた今回の殉教者たちは、司祭4名を含む全員が日本人であり、模範となる家庭人や女性、また22人の10歳未満の子どもたちも含まれています。

先月は、八代の殉教者と京都の殉教者についてご紹介しました。今晩は、江戸の殉教者、ヨハネ原主水(はらもんど)とペトロ岐部神父に注目したいと思います。解説は、先月と同じ、カトリック中央協議会から出版された『ペトロ岐部と187殉教者』から抜粋いたします。

 

ヨハネ 原主水

 
ヨハネ 原主水

原主水は下総国(現在の千葉県)臼井城主の子に生まれた。父は北条氏に従って小田原の合戦に参戦。秀吉に敗れ、江戸にて切腹。父を亡くした幼少の主水は、家康の小姓に召され、君主に伴い伏見に移った。そこには朝鮮から連れて去られたおたあジュリアも奥女中をしていた。1600年、主水は教会の門をくぐり、大坂でモレホン神父から受洗、ヨハネと名乗った。1603年、「背が高く、勇猛な武士」は20歳で走衆(将軍警護役)の頭になり、30人を預かって1500石を賜るに至った。やがて、家康に従い駿府城に移った。将軍家康警護の先頭に立つ主水の得意満面の姿はまぶしかった。この世の光に喜々として仕える若き主水がそこにいた。名声と利益はいつの世も人を駆り立てる。

1612年駿府の教会名義人岡本大八による収賄事件は、教会の歴史に暗い影を落とした。家康は教会に不信を抱いたとき、弾圧者となり家中のキリシタン武士14人の家屋敷を没収して追放した。そのとき主水は行方をくらまし、逃亡者になった。そして自らの影を知った。

「この男、密通の沙汰あり」「御殿に勤める女の一人をたぶらかした」。主水に関して幕府にも教会にも、この記録は残った。恋仲の野尻彦太郎の妹は斬首、彦太郎は閉門、蟄居(ちっきょ)。逃亡中にかくまった者たちも斬首。2年後、捕らえられた主水は安倍川の河原で両手の指を切られ、額に焼印を押され、両腿の筋を切り落とされた。走衆の組頭は手足を失い、ハンセン病者の小屋に運び込まれた。生き残ったこと自体、主水には深い罪だった。もう光はなかった。愛する友、愛する女性、そしてすべてを失ったとき、闇の中に初めてキリストの十字架が見えた。いざりながら生きる主水は、いつしか江戸浅草のハンセン病者たちに身をかがめて仕えていた。「自らの苦難と嘲笑と人々への怖れ」を引きずって生きる主水の姿は、キリストの十字架の愚かさと重なって見えた。そのころ、デ・アンジェリス神父は、レオ竹屋権七の家に、東北から帰ったガルベスは神父は浅草のハンセン病者の中に隠れていた。

1623年、主水のかつての部下は銀300枚の賞金目当てに裏切り、主人とその仲間の居場所を密告した。こうして、デ・アンジェリス神父、ガルベス神父、修道士遠甫、原主水ら50人が捕らえられた。ちょうどこのとき、江戸には将軍家光の就任を祝うために全国の諸大名が集まっていた。家光は自らの威信と断固たるキリシタン禁令を誇示するため、捕らわれ人を諸大名の前で火刑に処するよう指示した。

1623年12月4日、品川の宿(しゅく)、札の辻において、宣教師と信徒総勢50人が、おびただしい群衆の前で火に焼かれ殉教した。その身をはい上がる火炎に、腕を廻して抱き寄せようとする主水の姿に群衆はどよめいた。自らの過ちを抱き寄せて焼き尽くそうとしたのか、それとも、闇に見た真の光をかざそうとしたのか定かではない。焼き尽くされた主水に、もはや影はなかった。そして、影を引きずって生きる人々にとって、ヨハネ原主水は今、小さな光となった。

続いて、大陸を横断し徒歩でローマへ行った、不屈なペトロ岐部神父の生涯をご紹介しましょう。

 

ペトロ岐部神父

 
ペトロ岐部神父

"1600年、時代の奔流が徳川に向きを変えたとき、13歳のペトロ岐部は有馬のセミナリオに入った。以来、故郷に戻ることはなかった。セミナリオ卒業を控え、イエズス会入会を希望するもかなわず、自らしたためた誓願文をそっとふところに忍ばせ、時を待った。その後8年間、同宿として筑前(現在の福岡)甘木と秋月で働いた。1614年3月に殉教した秋月の世話役マチアス七郎兵衛の遺体を長崎に運んだとき、岐部は日本の教会がどこに向かっているかを肌で感じた。その年の暮れ、司祭職への志を固めた岐部は、追放先のマカオにいた。だが日本人学生に対する偏見や経済難を理由にマカオの司祭養成機関は無情にも閉鎖。しおれて日本に戻る者、したたかにマニラに活路を求める者、そしてインドのゴアに向かう者。ザビエルの宣教の根底にあった日本人への信頼が問われていた。そのとき、岐部はローマに向かった。1617年、マカオを出奔し、インド、パキスタン、イラン、イラク、ヨルダンへ。死と隣り合わせのシルクロードは、岐部にとって唯一残された司祭への道だった。

1620年5月ころ、ペトロ岐部はローマのイエズス会本部の扉をたたいた。日本の上長からの評価と、眼前に立つ不退転の若者との落差に、ローマの幹部は驚きを感じたであろう。同年11月15日司祭叙階、その5日後にイエズス会入会。33歳だった。1622年3月12日に行われたイグナチオとザビエルの列聖式にあずかった岐部は、あらためてザビエルの思いを感じた。もはや安穏とローマで過ごすときではなかった。岐部は帰路についた。リスボンからマカオ、アユタヤ、マニラに至る航海で3回難破。ついに1630年、ミカエル松田とともに「神からの恵みの風に信頼し、帆を張って」ルバング島から最後の航海に出た。折りからの台風で小舟はまたも難破したものの、「同胞の救霊のために前進したい」との激しい一念が、二人を薩摩の坊津にはい上がらせた。

16年ぶりに祖国の地を踏んだ岐部は長崎に直行した。しかし、そこには想像を絶する激しい迫害と殉教の町へと化していた。1633年には日本のイエズス会責任者フェレイラが棄教、長崎、京都をへて岐部は東北の水沢に活動の拠点を置いた。一方、島原の乱を契機に幕府はその取り締まりを全国に徹底させた。1638年3月、旧知の同宿長三郎が賞金目当ての訴人となり、岐部の宿主を告発した。そして、岐部も捕らえられた。江戸に護送され、将軍家光と重臣直々の討議は、岐部にとって最高のあかしの場となった。皮肉にも、その調書を残した宗門奉行の井上政重の一文が、岐部の生涯をまとめ上げている。「キベヘイトロはコロび申さず候。ツルシ殺され候。同宿ども勧め候ゆえ、キベを殺し候由」。1639年7月帰天、享年52歳。日本人を愛し、その文化の中にキリストの教会を模索したザビエル、そして日本人としての誇りと独自の信仰の中で成長したペトロ岐部。イエスの福音のための不退転の霊性が、ザビエルとペトロ岐部と現代の教会を結ぶ。これは主がなさったことで、人の目には不思議に見える。
                             (カトリック中央協議会『ペトロ岐部と187殉教者』)

『カトリック典礼聖歌集』No.310 「キリストはぶどうの木」① ④

ペトロ岐部と187殉教者列福にあたっての祈り

   いつくしみ深い神よ、
   あなたは、聖フランシスコ・ザビエルの働きをとおして、
   日本の地に福音の種を蒔いてくださいました。
   その種は、信仰と愛を生きる共同体として大きく成長し、
   厳しい迫害の中でも、多くの信徒・司祭が、
   生と死をとおして主キリストをあかししました。
   江戸の殉教者 ヨハネ原主水(はらもんど)、
   ペトロ岐部(きべ)神父をはじめ、
   188人の列福にあたって祈ります。
   わたしたちも信仰の先輩にならい、
   神に対する信頼と人に対する愛をつらぬき、
   現代社会の中で、
   キリストの証人として生きることができますように。
   また信教の自由を含むあらゆる面での人権が、
   世界中どこにおいても尊重されますように。
   わたしたちの主イエス・キリストによって。
   アーメン。

パウロは言います。「御言葉をのべ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」(テモテ2 4:2)この言葉は、迫害の時代に、宣教と司牧に命をかけた多くの司祭たちや殉教者たちの精神に共通しています。神のめぐみによってこの世の衣を脱ぎ捨て、キリストをまとった人たちの尊厳に満ちた人生は、古びることなく、時代を超えて輝き続けています。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


「アレオパゴスの祈り 年間スケジュールと祈りの紹介」に戻る

▲ページのトップへ