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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2009年7月4日


ドウダンツツジ

 
   神よ、わたしの祈りに耳を傾けてください。
   嘆き求めるわたしから隠れないでください。
   わたしに耳を傾け、答えてください。 (詩編 55.2~3)

   神よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
   あなたのまことにわたしを導いてください。
   教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。
   絶えることなくあなたに望みをおいています。 (詩編 25.4~5)
 

わたしたちは、今晩、さまざまな思いをもって、ここに集まってきました。「忙しい毎日をおくっている中で、静かに祈りのときを持ちたい」「苦しいこと、困難なこと、悩みの中にあって神さまにその叫びを聞いてもらいたい」「家族のため、友人のため、祈りを必要としている人のために祈りたい」。

神さまは、今、わたしたち一人ひとりの心をご覧になって、わたしたちの祈りをすべて受け取ってくださいます。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11.28)こう言って一人ひとりを包み、近くにいてくださっています。

今からいつものように祭壇にローソクをささげますが、今晩、祈りに参加したくても来られなかった方々、また、この聖堂に集まっているわたしたちお互いの必要のためにも祈りましょう。 後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。祭壇の上の祈りのハガキをお取りになって席にお戻りください。

今晩の「アレオパゴスの祈り」では、イエスの祈りについて触れてみたいと思います。イエスが、日常生活の中で、また決断を迫られる大切なときなど、よく祈っておられたことを、福音記者たちは記しています。

マルコ福音書のはじめに次のような記述があります。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町に行こう。そこでも、わたしは宣教する。』」(マルコ1.35~38)ここでは、朝早くまだ暗いうちにイエスは起き出して、人里離れたところで祈っていた。と述べられています。

また、ルカ福音書では、12人の弟子を選ぶに先立って、山に登ったと伝えられています。

「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6.12~13)

山に登ったということは、イエスが人里離れたところ、神との出会いの場を求めて山に登っていかれた、と考えられるでしょう。人生の大切な節目で、イエスはきまって神の前で考え、神の示す道を問い、神のお望みを行う力を願って祈られました。

このように福音書を読んでいると、そこにはいつも祈るイエスの姿があります。この祈りとは何でしょうか。少し考えてみたいと思います。わたしたちが、日常生活の中で、神に祈るとき、つい自分の願いごとをお願いすることのように考えがちです。しかし、イエスが祈っておられる姿を見ると、神との交わりの中で、自分が神の望みを確かめながら生きているか、そのためには何をしたらよいのかを聞きながら探すことが祈りだと気づかされます。何か願いごとをするのも祈りの一つですが、それよりももっと根本的に、神とのかかわりそのものだと言えるでしょう。

さて、イエスが「祈るときには、こう祈りなさい」と教えてくださった祈りがあります。それは、教会で、「主の祈り」と呼ばれていて大切にされている祈りです。この祈りが記されているマタイによる福音書の6章を聞きましょう。

マタイによる福音書6.8~15

   あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
   だからこう祈りなさい。
   『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
   御国が来ますように。御心が行われますように、天においても地の上にも。
   わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
   わたしたちの負い目を赦してください。
   わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
   わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
 

イエスが教えた主の祈りは、現代にまで伝えられています。どのキリスト教会も、信者たちが一緒に集まったときに、いつもこの祈りを唱えます。短く簡単な祈りで、だれでも覚えられます。この祈りは、イエスの祈り方の特徴を表しています。わたしたちは彼の祈る姿を通して、イエスが神に対してどのようなかかわりをしているかを学び、神ご自身がどのような方であるかを知ることができます。

イエスは、「父よ」と呼びかけています。これは、イエスの祈り方の特徴です。イエスは、「アバ」(父よ)という言葉で祈っています。「アバ」というのは、ヘブル語で「お父さん」という、小さな子どもが自分の父親を呼ぶときの、親しい呼びかけの言葉でした。新約聖書はすべてギリシア語で書かれていますが、その中でわざわざ「アバ」というヘブル語の言葉がそのまま記され、それにギリシア語で「父よ」と解説を加えているのは、それがイエスの特徴ある言葉として印象深く弟子たちの記憶に残っていたからでしょう。当時のユダヤ人たちは、神に呼びかけるために「アバ」という親しい日常語を用いることは決してしませんでした。幼児がお父さんにもっているような信頼をこめて、イエスは神に呼びかけました。イエスは弟子たちに、小さい子どもが自分の父親に呼びかけるように、信頼と愛を込めて、神に向かって「お父さん」とよびかけなさい、と教えました。

祈るイエス

「み名が崇められますように」という言葉は、わたしたちには、あまりピンと来ないかもしれません。しかしユダヤ人にとっては、とても切実な祈りでした。自分たちが神から特別に選ばれ、神の救いのわざに奉仕するために世にあると考えていました。自分たちの民族をとおして、神がすべての民族に知られるようになる、そのときに神の名がすべての民族によって崇められるようになると思っていました。しかし、神に選ばれたはずの民族が、他の異教の神々に仕えている異邦人の勢力に破れ、奴隷となって引っ張られていくことは、自分たちの神の名が侮辱されることでもありました。異民族は彼らをあざ笑って、「おまえたちの寄り頼む神はどこにいるのか、おまえたちの神は無力なのか」とののしりました。「主よ、いつまで黙っておられるのですか。今こそあなたの力を奮い、あなたこそ神であることを示してください。」これが苦境にあえぐイスラエルの切なる祈りでした。「み名が尊ばれますように」と聞けば、わたしたち人間が神を知り、敬うようになるようにと理解しますが、もともとは神ご自身がその力を奮い起こし、ご自分が神であることを示し、み名を異民族の前で輝かせてくださるように、という意味でした。

これに続いて「み国が来ますように」という祈りも同じ内容です。「み国」つまり「神の国」とは、神がすべての人間を支配する現実のことを語っています。神が人間の価値の基準として大切にされるという現実のことです。このとき、神を神とも思わないで、わがもの顔に振る舞っていた者は恥じ入り、逆に神の正しい裁きを待ち望んで耐え忍んでいた者は高められ、飢えていた者はよいもので満たされるようになると信じていました。イスラエルの民は苦しみにあえぎながら、そのような時が早くこの世界に実現されますように、と祈っていました。しかし、人々の期待とは違って、ユダヤ人たちの生活はますます苦しくなるばかりでした。イエスの時代には、ローマ帝国がユダヤを占領し、自由を奪い、過剰な税金を取り立てていました。敬虔なユダヤ教徒は、ますます貧しい生活を余儀なくされ、「神の国」は世の終わりが来ないと実現しないと思うようになりました。世の中はまだ悪の力が支配している。だから神の国が早く到来して、この悪の支配を打ち破ってくれればよい、と願っていました。このような状況の中でイエスは、神の国が自分をとおしてやってきたことを語りました。今、ここで神の支配が始まっていること、神の国が完成される日を待ち望むことに目を向けていきました。

主の祈りの後半では直接に自分たちの必要のために願う祈りが続いています。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」糧とは、神がわたしたちの心と体とをいっぱいに満たしてくださることです。生きていくために必要なものを与えてくださいますようにと祈ります。

次に、「わたしたちの罪をおゆるしください」この祈りには「わたしたちも、わたしたちに負い目のある者をすべてゆるしますから」という補足が付いています。まず互いに和解しなさい、とイエスは繰り返して教えられました。でもそれは、他の人をゆるしたから、その報いとして神からのゆるしをいただくのではありません。神のゆるしが先にあって、わたしたちはゆるすことができるようになります。ゆるすということは、必ずしも上に立って自分に負債のある人をゆるすことではなく、神の導きを信じるからその人を裁かないということです。自分がその人より上だからゆるすとか、あわれむということではなく、自分があわれみを必要としている弱い人間だから、自分のほうから裁くことをしないで、神のみ手にすべてを委ねるということです。

最後に「わたしたちを誘惑に陥らないように導いてください」と祈ります。ここでの誘惑は、世の終わりの神の国が完成される時、悪の力が最後のあがきをもって、何とかして神から人々を遠ざけようとする、試みのことを言っています。わたしたちは、自分のもろさや弱さを十分に知っていて、自分の力が頼りにならないの知っていますから、どうか悪の誘いに引き渡さないでください。と祈ります。この世の中で試練は避けられないと思います。試練にまったく会わないようにと祈るのではなく、試練の中でも神の力によってそれに打ち勝つことができるようにと祈ります。

イエスは、この祈りを天地を造られた父に祈られました。イエスが祈ったこの同じ祈りを、注意深くゆっくりと味わいながら唱えましょう。

   天におられるわたしたちの父よ、
   み名が聖とされますように。
   み国が来ますように。
   みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
   わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
   わたしたちの罪をおゆるしください。
   わたしたちも人をゆるします。
   わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
   アーメン。
 

カトリック教会は、教皇ベネディクト16世が、聖ヨハネ・マリア・ビアンネ(1786年~1859年)の帰天150周年を記念して、先月の6月19日から来年の6月19日までを「司祭年」として宣言しました。生涯の奉仕を通して司牧者の真の模範を示した、ビアンネ神父の取り次ぎを願い、すべての司祭が、神の祝福のうちに司祭職への忠実を強め、最後まで生きぬくことができるようお祈りしましょう。

そして、多くの若い人たちが、自分の生き方として司祭召命を考えるよい機会となり、それに応えることができますように。

『パウロ家族の祈り』p.207 「イエスのみ心に向かう祈り」4 

     師イエス、
   司祭職を定めてくださった愛のみ心に、感謝と賛美をささげます。
   御父があなたを派遣されたように、あなたは司祭を派遣されます。
   あなたは司祭に、教え、おきて、恩恵の宝をゆだね、
   さらに人びとの魂までも、ゆだねられました。
   わたしたちが司祭を尊敬し、かれらに聴き従い、
   あなたの道を歩むことができるよう、恵みを与えてください。
   師イエス、あなたの刈り入れに、よい働き手を送ってください。
   司祭が、世を清め保つ塩、世の光、山の上に建てられた町でありますように。
   すべての司祭があなたのみ心にかない、
   いつの日か天の国で、救いに導いた人びとに囲まれて
   ほまれと喜びを受けることができますように。

   イエスのみ心、いっそう深くあなたを愛することができますように。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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