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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2012年4月14日


枝垂れ桜



キリストは、死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙1 15.20~22

今年は、4月8日に主のご復活祭を迎えました。毎年復活祭の季節がくると、やっと本格的な春になったという感じがします。復活祭は、毎年日付が変わる移動祝日です。もともとはユダヤ教の過ぎ越しの祭りと同じ日に祝われていました。しかしキリスト教がユダヤ教から離れ、各地に広まっていく中で、復活祭をいつ祝うかということで論争が起こってきました。ユダヤ教の暦は、月の満ち欠けに基づく太陰暦に従っていたからです。325年のニケヤ公会議で、春分の日の後、満月を迎えた、最初の日曜日に復活祭を祝うということが決められました。カトリック教会は、その伝統に従って現在に至っています。

復活は、キリスト教の中で中心となる出来事です。キリスト教の信仰は、復活への信仰で、イエスの復活がなければ、キリスト教は生まれてこなかったでしょう。イエスの復活は、新約聖書で四つの福音書全部に書かれていますが、実際にその瞬間に起こったことを見た人は、だれもいません。イエスの復活が事実であったことは、復活したイエスに出会った弟子たちの証言によります。

今晩のアレオパゴスの祈りでは、明日の復活節第2主日に読まれるヨハネ福音書、第20章のトマスの話をご一緒に見ていきましょう。

イエスの復活の喜をともに祝うため、わたしたちをここに集めてくださった神に、感謝をもって、ローソクを祭壇に捧げましょう。祭壇の上に置いてあるハガキをお取りになって席へお戻りください。

イエスは、十字架につけられ殺されてから、3日目に復活し、弟子たちの前に姿を現されました。しかし最初にイエスが現たとき、トマスだけはそこにいませんでした。トマスは、イエスの復活を"自分の目で確かめるまでは決して信じない"とその報告を頭から否定しました。それから一週間後、再びイエスは、弟子たちのところに現ます。今度は、トマスもいました。ヨハネによる福音書を聞きましょう。

ヨハネによる福音 20.19~29

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしは、主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

復活したイエスが弟子たちに現ます。イエスが殺されてしまったので、弟子たちは自分たちの身の危険も感じて怖かったので家の戸には鍵をかけていました。イエスの遺体を納めた墓が空になっていたことも、この日の朝から弟子たちは知っています。悲嘆にくれ、困惑し、先の見えない暗がりの中にあった二日間はとても長いものでした。イエスの「あなたがたに平和があるように」ということばは、弟子たちに本当に平和をもたらすものであってほしいと願う心があったと思います。復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとって喜と平和を与える体験であったことを福音書は伝えています。ところが、そこに居合わせなかった弟子がいました。それが今日の主人公のトマスです。

この使徒トマスは、以前イエスがあえて危険を冒してユダヤに行こうとしていたとき、仲間の弟子たちを励まして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11.16)と言った弟子です。その誠実さ、善意のために、自分の失敗を人一倍悔やんでいた一人だったかもしれません。そしてトマスは疑い深い性格だったのでしょう。疑い深いトマスは、自分で体験しないかぎり、イエスの復活を信じないと言い張ります。それは、弟子仲間が復活の主に出会ったとき、自分はそこにいなかったという孤独からの疑い深さです。

一週間におよぶ仲間たちの証言もトマスには無駄だったようです。トマスだけが喜の輪の中に入れずにいます。そこにもう一度イエスが姿を現します。それはこの信じられずにいる一人の弟子のために心を配るイエスです。あたかも失われた一匹の羊を捜す羊飼いのようなイエスの姿が伝わってきます。

トマスは自分の絶望、孤独、疑いが解決するために、復活の主イエスさまを目で見て手で触れることを切に願いました。イエスの手に残る釘の跡、わき腹に残るやりの傷跡(ヨハネ19:34)は、まさにあの殺されたナザレのイエスであること、弟子たちに裏切られて一人で死んでいったイエスが目の前にいることを示していました。

復活されたイエスは、トマスにその復活された姿を見せる前から、トマスが一人で絶望、孤独、疑いの中で、苦しんでいるのをすべて知ってくださっていました。実際にその傷ついた手を差し出されたのかもしれません。信じるためにはどの人にも同じ手順や方法がふさわしいのではないことを知っているイエスの心遣いを見るような気がします。

(沈黙)

それまでこの神秘的な出来事に心を閉ざしていたトマスが、このイエスとの出会いによっていっぺんに変えられていきます。トマスが復活されたイエスに『わたしの主。わたしの神』(28節)と信仰を告白したのは、トマスの願いどおりに復活されたイエスがその姿を現してくださったからではありません。復活の主イエスの愛にトマスが触れたからです。トマスは、手やわき腹の傷を調べたから、イエスの復活を信じたのではなく、不信仰な自分のようなものにも、ご自分の手やわき腹の傷跡を見せてくださったイエスの心に打たれたからこそ、イエスの復活を信じることができました。それは自分たちの失敗や裏切りを赦し、平和を与えてくれるイエスとの出会いでした。それは、今まで従ってきたイエスが自分にとって本当にだれであったのかを理解したトマスの信仰告白でした。復活されたイエスは、トマスに『見ずに信じる者は幸い』(29節)と伝えています。このみことばは、トマスにとっては神さまのみことばを疑ったことを示される苦い みことばでした。

しかし、トマスにとって喜のみことばになりました。目で見て手で触れて信じることよりも、イエスのみことばから目に見えない神さま、復活されたイエスを信じる信仰こそが、はるかに豊かな信仰であることに、トマスは気づくことができました。復活への信仰は、見ることを超えて、恵みとして与えられるものと言えるでしょう。

イコンの名画をご覧ください。

イエスの脇腹に指を入れるトマス


真ん中にいて、右手をあげて自分の脇を見せているのが復活のキリストです。その姿勢はわたしたちに対しても「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語りかけています。キリストの両手や両足にも釘の跡があります。聖書にあるように、他のだれでもなくまさしく十字架につけられたイエスが復活したことを教えています。

キリストの右側にいて人差し指でキリストの脇に触っているのがトマスです。「わたしの手をその脇にさし入れてみなければ、決して信じない」と言った彼は「疑いのトマス」と呼ばれています。正教会では「ああ、トマスの幸いなる不信よ、信者の心を知識に至らしめる」と言っています。トマスの疑いは、真理を知りたいという欲求であり、その分、深く固く信じるようになれたからです。聖書からはトマスが触ってはいないように印象づけられていますが、正教会では、トマスは、ちゃんと「触った」と解釈しています。それは、キリストが事実、体をもった復活であることを証しするためです。

閉ざされた戸を見ましょう。キリストの後ろには大きな扉がありますが、これは「戸はみな閉ざされていたが、イエスが入って来られた」という聖書のことばを表しています。復活のキリストは確かに肉体をもっていたことがトマスによって確かめられた一方、それはこの世の物質を超越している新しい体であることも、この閉ざされた戸が物語っています。

キリストの左側、こちらから向かって右にいるのは、その顔つきでペトロであることがわかります。両手を広げて驚きのポーズをとっています。その他全部で11名の弟子たちが両側にいます。11名なのはイスカリオテのユダがいないからです。聖書に記されている復活のキリストが現れた箇所は11箇所あります。正教会では土曜の夜の祈りの中で、復活の福音を11に分けて順番に読んでいきます。復活は11という数字によっても表されています。

『祈りの歌を風にのせ』p.40 「主はよみがえられた (2回繰り返す)

トマスの物語をとおして、復活の主イエスは、失われた子羊を探す羊飼いのように、わたしたち一人ひとりのことを心にかけ、わたしたちが闇の中にあるとき探しに来てくださる方であることがわかります。わたしたちが一人ぼっちで孤独の中にいるときに、信じる者となるようにご自分を現して、信仰へと招いてくださる方です。

再び弟子たちに現たイエスは、まっすぐに、いちばん傷ついているトマスに向かっていきます。釘の跡を見せながら、死を越えた力強さをトマスに確かめさせるのです。あきらめと絶望の深い闇の中にいて、人間不信になっていたトマスは、イエスの十字架の傷跡に触れるとき、心がひらかれます。トマスの心は、懐疑から信頼へと変えられていきました。このトマスの救いの体験をとおして、イエスが語ってくださった「見ないのに信じる人は、幸いである」は、イエスを直接見ることができないわたしたちにとって、イエスからの祝福のことばではないでしょうか。弟子たちの後の時代のキリスト者はみな、「見ないで信じる者」だからです。イエスが復活されたことを聞いて信じているのです。

信仰とは、常識を越えた世界との出会いです。イエスと父である神とのつながりは、死によって断ち切られませんでした。それは、イエスとわたしたちとのつながりも死によって決して断ち切れないものであることを示しています。

(沈黙)

『祈りの歌を風にのせ』p.20 「キリストの平和」 ①~④

最後に、主の復活の主日から復活節の50日間、毎日唱えられるアレルヤの祈りをキリストの母である聖母マリアとともにご一緒に祈りましょう。

アレルヤの祈り
   神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
   あなたに宿られた方は。アレルヤ。
   おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
   わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。
   聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
   主はまことに復活されました。アレルヤ。

祈りましょう。
  神よ、あなたは御子キリストの復活によって、世界に喜をお与えになりました。
  キリストの母、聖マリアにならい、
  わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることができますように。
  わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

これで今晩のアレオパゴスの祈りを終わります。


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