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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2012年5月5日


盛り花



  わたしの魂は主をあがめ、
  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
  今から後、いつの世の人も
  わたしを幸いな者と言うでしょう、
  力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
  その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、
  主を畏れる者に及びます。
  主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
  権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
  飢えた人を良い物で満たし、
  富める者を空腹のまま追い返されます。
  その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
  わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
  アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
                       ルカによる福音書1.47~55

5月に入り、さわやかな季節を迎えました。自然界は、美しい花を咲かせ、緑の新芽にいのちの神秘と力強さを感じます。造り主である神をたたえているようです。教会の典礼も主イエスの復活を祝う復活節、そして主の昇天、聖霊降臨と豊かな恵みのときが続きます。

また、カトリック教会では、5月を「聖母月」と呼んで主イエスの母マリアをたたえて祈ります。「マリア」という呼び名は、やさしく、穏やかな、温かい響きを持っています。

マリアは、ガリラヤのナザレに、父ヨアキムと母アンナとの間に生まれました。大天使ガブリエルが伝えた神からのお告げによって、彼女の人生は、一変してしまいました。救い主の母となったマリアは、生涯をとおして、神への忠実を生き、神のはしためとして仕える者となられました。新約聖書の四つの福音書は、それぞれにイエスの母マリアのことを語っています。今日は、その中で、ヨハネ福音書にある「カナの婚宴」の箇所を取り上げていきたいと思います。

マリアの取り次ぎによって、イエスは、水をぶどう酒に変え、神の栄光を現す現してくださいました。マリアの存在は、わたしたちにとっても、力強い存在であり、いつも必要な恵みを取りなしてくださる方です。それは、キリストの母であると同時にわたしたち、一人ひとりの母であることを示しています。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、取り次ぎ者である聖母マリアに焦点をあてて祈りましょう。 後ろで、ローソクを受け取って、それぞれの祈りの意向に合わせ祭壇に捧げましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席へお戻りください。

ヨハネによる福音書の「カナの婚宴」の箇所を聞きましょう。

ヨハネ福音書2.1~11
3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

(沈黙)

聖書の中には、イエスが最初に行われた「しるし」は、カナという町で行われた結婚式であったことが記されています。カナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、その所在は確定できていませんが、ガリラヤ湖から西へ約20kmにあったと見られています。カナは、イエスが初めて奇跡を行った場所として歴史に名を残しています。

日本では結婚式と披露宴はだいたいセットで行われ、1日のうちに全部が終わります。しかし、当時のイスラエルでは、婚礼は水曜日から始まって1週間続きました。ですから、予想外のことがよく起こりました。ここでは、婚礼の最中に、招いた人たちをもてなすためのぶどう酒が切れてしまうという大変な問題が起こります。宴会の途中でぶどう酒が切れてしまうというのは、恥ずかしいことだったようです。婚礼があると、町全体の人を招いて、町中、だれでもお祝いに来るならわしでした。逆に、招かれているのにお祝いに出向かないことは、侮辱行為と受け取られます。

婚礼は、大勢の人を迎える重要な意味を持つ大きなお祭りです。ですから、婚礼の祝宴の計画は綿密に立てなければなりませんでした。イスラエルには「ぶどう酒がないなら喜びもない」という諺があるほどで、宴の席でぶどう酒は必要不可欠なものでした。ぶどう酒は結婚の喜びを増し加え、分かち合うものと考えられていました。 さて、ぶどう酒がなくなったことに気づいたのは、一緒に婚礼に出ていたイエスの母マリアでした。人々は宴会を楽しむことだけに関心があり、ぶどう酒がなくなってもだれも気づきませんでした。マリアも招かれた客でしたから、客の一人として見て見ぬふりをすることもできたでしょう。しかし、マリアはこの問題を自分のことのように、当事者と同じ立場に立ってその問題を深刻に受け止めました。また、マリアはぶどう酒が切れたことでだれも非難せず、ただ事実をありのままに語ることで、問題をイエスの前に持って行きました。

彼女は、ただ、現状を伝えただけでした。人は問題が発生すると、誰々のせいだと言いながら互いに非難しがちです。ぶどう酒がなくなった時、招かれた人々は主人が十分に準備しなかったからだと非難するかもしれません。また、主人は招待客たちが飲み過ぎたからだとつぶやくかもしれません。しかし、そのように言っても問題の解決には何の役にも立ちません。

彼女は、全幅の信頼をイエスにおいていました。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えます。しかしマリアは、あわてる様子もなく、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、イエスの答えが自分の期待どおりの答えでなくても彼を信じました。彼がこの現実を必ず救ってくれることを直感的に感じて疑いませんでした。ここに本来の信仰の姿を現していると思います。

マリアは、大天使のお告げを受けたとき、「わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように」と謙遜に受け止めました。マリアのこの信仰が、召し使いたちに、主の言葉を最後まで従うようにと助けることができました。

祈りの歌を風にのせ p.20『マリアのこころ』 ①~④

さて、物語は、さらに進んでいきます。そこにはユダヤ人の清めのしきたりによって、石の水がめが6つ置いてありました。「メトレテス」という単位が使われていますが、1メトレテスは、約39リットルです。2ないし3メトレテス入る水がめは100リットル前後の大きな水がめになります。そのかめが6つあるということは、600リットルの水を井戸からくみあげないといけません。石の水がめの重さをプラスすれば、一つの水がめだけで、約100㎏以上はあったと思われます。今のように水道の蛇口をひねると水が出てくる時代ではありません。召し使いたちにとって、井戸から大量の水をくむのは、大変な労働だったことでしょう。

カナの婚宴


「さあ、くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」とイエスが言われます。このイエスの言葉は、最初の指示よりも聞き従いづらいことでした。召し使いたちは、自分たちがくんで来たものが水であったことをはっきりと知っていました。それを宴会の世話役のところに持って行くようにと言われました。「手足を洗う水を宴会の世話役のところに持って行く」などということは、バカにされ怒られるだけでは済まないかもしれません。しかし彼らは今度もそのとおりに聞き従いました。召し使いたちは縁まで一杯になった重い水がめを運んでいきます。彼らは、汗だくになりながら、主のみ言葉に従いました。「持って行きなさい」という言葉を聞いたすぐ直後に「彼らは持って行った」とあります。その時、不思議なことが起こっていました。召し使いたちが宴会の世話役のところに持って行った時には、既に水がぶどう酒に変化していました。

(沈黙)

ピンチに追い込まれそうになった、この新郎新婦にとって最も幸いなのは、この婚礼の席にイエスと母マリアがいたということです。新郎新婦は、ぶどう酒がなくなりかけていることすら知らなかったのではないでしょうか。現場に主イエスと母マリアがともにおられるということは、どんな困難も乗り越えていけるという希望のしるしです。自分を見れば、足りないところばかりです。それゆえに失望や落胆もあります。しかし、主イエスとマリアを招いているならば、その問題は解決できるでしょう。わたしたちの限界にいち早く気づいてくださっているのがマリアです。日常の生活の中でも、わたしたちが気づく以前に、不足しているものをイエスに取り次いでくださっています。

わたしたちの人生に、喜びがあふれる場所に主イエスがおられますように、そして、主を心の隅においやるのではなく、心の中心におられるように願いましょう。そうすれば、わたしの欠点、わたしの未熟さを補って主がわたしの中で自由に働いてくださいます。主イエスがいてくだされば、後から出てきたものが「良いぶどう酒」だったということが起きるのです。カナの婚宴では後から出てきた100リットルの水がめ6つの、良質のぶどう酒は、この婚礼だけでは飲みきれなかったでしょう。このように、主イエスは、わたしたちの人生に有り余るほどの祝福を用意してくださっています。

『パウロ家族の祈り』p.341

  救いに向かって歩む人類

  自然のいのちを母から受けるように、超自然のいのちをマリアから受けることを
  定められた神は賛美されますように。
  マリアは花を咲かせる根、祝福された御子を宿された母、
  さし昇る朝日を告げるあけぼのです。
  マリアが来られるところにはイエスもまた来られ、
  この母に出会う人はイエスにも出会います。
  マリアによってたどる道は近く安全です。
  イエスはマリアの子となり、
  身をもってわたしたちにマリアの子となるよう模範を示されます。
  天のいと高きところには神に栄光、善意の人々に平和。
  道・真理・いのちである師イエス、わたしたちをあわれんでください。
  使徒の女王聖マリア、わたしたちのために祈ってください。

さて、5月の最後の日、5月31日は、「マリアのエリザベト訪問」を祝います。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、親族のエリザベトも懐妊したという知らせを受けます。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそくユダヤにあるエリザベトの家を訪ねました。現代のような交通手段のない時代です。ナザレからユダヤまで、距離にして112kmの道のりを少なくとも7日間はかかって歩いたと推測されています。

マリアの訪問を喜んだエリザベトは、胎内の子とともに、マリアの幸せを祝福し、それを聞いたマリアも、神に感謝して祈りました。 この祈りが有名な「マニフィカト」と呼ばれるマリアの賛歌です。修道院では、この祈りを、『教会の祈り』の晩の祈りの中で毎晩唱えています。ご一緒に歌いましょう。

 マニフィカト

これで今日のアレオパゴスの祈りを終わります。


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