home>カレンダリオ>教会カレンダー

教会カレンダー

聖母のみ心

第1朗読 イザヤ書 61章9~11節

福音朗読 ルカによる福音書 2章41~51節

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

イエスのみ心の祭日の翌日には、“聖母のみ心”を記念します。

“聖母のみ心”の記念日は、1944年にピオ12世教皇によって定められました。

神に自らの心を開いてささげた聖母マリアは、すべてのキリスト者の模範です。
 マリアの心が聖霊のふさわしい住まいとされたように、わたしたちの心も聖霊の神殿となることを祈る日です。

教会は、「神の最も聖なる母マリア」を特別な心で崇敬しています。教皇パウロ6世は、聖マリアへの信心についての使徒的勧告を出されたとき、「私は聖なるおとめマリアへの信心が盛んになっていくことを願ってやみません」と序文に記しています。

教会カレンダーには、マリアを祝い、記念し、祈る日が数々ありますが、それらはすべて、キリストの救いの業をたたえるために、最適の日が選ばれています。
 キリストの神秘を祝い、祈る典礼暦年の循環に併せて、キリストの母マリアを記念できるようになっています。

今日は、マリアの思いと心を観想しながら、過ごす一日でありたいものです。

* * * * * *

今日読まれる第1朗読 イザヤ書 61章は、第3イザヤ書の中心部分になる箇所です。
 紀元前538年以降、捕囚にあった民の帰還が可能になったものの、第2イザヤの告げていた栄光が現れず、失望にあった民に語られた主の言葉です。

救いが予告され、10節からは、救いのメッセージを受け入れた人の喜びが花婿、花嫁のイメージで現されています。

「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る」とは、主からの大切な使命を託された人の喜びであり、またこの神からくる喜びの祈りは、マリアの祈りでもあるのです。

「主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」と今日の朗読の最後に歌われていますが、それができるのは「主は救いの衣をわたしに着せ」られたことを知り、神の恵を体に感じている人の言葉です。

* * * * * *

福音では、イエスが12歳の時に起こった出来事、つまり神殿での少年イエスについての話が読まれます。

一人神殿に残ったイエス、帰りの旅でイエスの不在に気がついた両親は、イエスを探しにエルサレムに戻り、神殿でイエスを見つけます。

思わずマリアは、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とイエスを戒めます。
 神殿の境内で学者たちとの問答の中で、イエスの賢い受け答えに驚いていたにもです。

イエスは「どうしてわたしを捜したのですか……」と答えます。

大天使ガブリエルからイエスがだれであるかを告げられていたマリアですが、イエスのこの言葉が理解できなかったと福音書は記しています。そして、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」と。

時が来るまで、マリアはこの出来事を心に抱き続けるのです。こうすることがイエスを知ることにつながるからです。
 このマリアの心は、いつの時代も私たちキリスト者の模範です。こうしてさまざまなイエスとの出来事、体験をとおして、マリアはイエスの理解を深めていくのです。母の心は十字架のもとにまで立たせるのです。イエスと生涯を共にされたマリアの心はどのようであったでしょうか。

パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、マリアの学舎に入ってマリアに導かれるために、マリアを学ぶように、マリアに自らを奉献するようにと招きます。

祈り

聖なる父よ、
  あなたは、人類の罪のために刺し貫かれた御子のみ心のうちに、
  限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。
  わたしたちが、心からの奉献によって
  キリストの愛にこたえることができますように。
   集会祈願より

▲ページのトップへ

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 イザヤ書 61章9~11節

彼らの一族は国々に知られ子孫は諸国の民に知られるようになる。
彼らを見る人はすべて認めるであろう
これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。

わたしは主によって喜び楽しみわたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾ってくださる。

大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように
主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

▲ページのトップへ

福音朗読 ルカによる福音書 2章41~51節

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、
両親はそれに気づかなかった。

イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、
それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、
話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
両親はイエスを見て驚き、母が言った。
「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
すると、イエスは言われた。
「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。 母はこれらのことをすべて心に納めていた。

▲ページのトップへ