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教会カレンダー

聖マリア-マグダラ

第1朗読 雅歌 3章1~4a節

または コリントの信徒への手紙 2 5章14~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1~2,11~18節

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 エルサレムの裕福な家に生まれ、幼くして両親を失い、兄のラザロと姉のマルタといっしょに暮らしていたといわれる。自由奔放な生活をし、やがて7つの悪霊につかれて苦しみ、人々から「罪の女」というレッテルをつけられて疎まれるようになった。そのときに、イエスと出会い、悪霊からも解放され、真の愛を知って回心し、徹底して信仰の道を歩んだ。復活したイエスが最初に現われたのは、このマリアにであり、彼女が他の弟子たちにイエスの復活を告げた。その後は、使徒たちの宣教活動を助けて、兄ラザロとともに南フランスに流され、隠遁生活のうちに生涯を送ったといわれる。

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第1朗読 雅歌 3章1~4a節

 (おとめは歌う。) 夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
求めても、見つかりません。
起き出して町をめぐり
通りや広場をめぐって
恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。

わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」

彼らに別れるとすぐに
恋い慕う人が見つかりました。

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または コリントの信徒への手紙 2 5章14~17節

 (皆さん、)なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい(います)。 わたしたちはこう考えます。 すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。 その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、 自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。 肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたの(です)。

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ヨハネによる福音書 20章1~2,11~18節

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 そこで、シモン・ペトロのところへ、 また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 マリアは墓の外に立って泣いていた。 泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。 一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。 「わたしの主が取り去られました。 どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。 しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。 「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 マリアは、園丁だと思って言った。 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。 わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、 彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。 「先生」という意味である。 イエスは言われた。 「わたしにすがりつくのはよしなさい。 まだ父のもとへ上っていないのだから。 わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、 また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、 「わたしは主を見ました」と告げ、 また、主から言われたことを伝えた。

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