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教会カレンダー

A年 待降節第2主日

第1朗読 イザヤ書 11章1~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 15章4~9節

福音朗読 マタイによる福音書 3章1~12節

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今日の典礼のテーマは、“救い主が来られる”、“主の道を整える”です。

待降節第1主日では、終末の時に来られるキリストを記念して、救い主を待ち望む思いを新たにしました。

待降節第2週、第3週は、救い主を長いこと待ち望んだ旧約時代(キリスト誕生以前の時代)をあわせて思い起こし、それにあやかろうとします。そこで、キリストを直接準備した旧約最後の人物として洗礼者ヨハネが登場します。

荒野のかなたから、「主の道を整えよ」と回心を呼びかける洗礼者ヨハネの声が響いてきます。

洗礼者ヨハネは暗闇の中にさまよっている人々や、今日もキリストの誕生を待ち望む人々に回心を促しています。

ところで、私たちが準備しながら待っている救い主キリストとは、一体どんな方なのでしょうか。

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第1朗読ではイザヤ書11章から読まれます。11章は、イスラエルの王国の性質についてやや具体的に描かれています。それは、正義が支配する王国と言えます。

イザヤ書1~12章は、「インマヌエル(神がともにおられるの意味)の書」と呼ばれ、そこにはインマヌエルについての啓示が3つあり、(1)7章10~17節、(2)8章23~9章6節、(3)は今日の箇所、11章1~10節であり重要なものです。

今日の朗読で、預言者イザヤは、来るべき王とその王国についてのべ、新しい王はエッサイ(ダビデの父の名)の子から生まれると宣言します。

今日の最初の節を読むと、ダビデ王朝が存在していないことを示しています。
 イスラエルがバビロンに捕らわれていた時代に、ダビデ王朝が、統治権を失っている状況にあります。それは、「切り株」と「根」だけという絶望的な状況になってしまったとしても、神がそこからいつか救い主(「芽」「若枝」)を起こしてくださるのだという確信は、ゆるぎないものだとイザヤは説きます。

今日の箇所は、のちにエッサイの子孫であるイエスの上に神の霊がとどまり、彼は霊に満たされ、イエスにおいて神の国が完成することを象徴的に預言しています。

“ひとりのみどりご”、インマヌエルの誕生は、希望に満ちたしるしです。

イザヤは、このインマヌエルの誕生によってもたらされる王国は正義と公平をもって治められるものであり、メシア時代の平和と繁栄は、「狼は小羊と共に宿り豹(ひょう)は子山羊と共に伏す……」ともあるように、野獣の性格、生態までも変えられるような理想的な描写で表現されています。

このようなことを可能にするのは、「主の霊」が彼の上にとどまり、霊に満たされ、霊に導かれるからです。

今日の私、私たちにとり、イザヤの語るメッセージはどう響くのでしょうか。
  どんな社会情勢の中にあっても、希望のしるしを見続け、その実現を待つときとしたいと思います。

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第2朗読では、ローマの信徒への手紙の、具体的勧告について述べる(14,1~15,13)まとめの箇所が読まれます。

第1朗読では、天から下る「主の霊」の働きについて語っていますが、第2朗読は「かつて書かれた事柄は」とはじまります。それは、旧約聖書のことです。旧約聖書といっても過去のことではなく、今生きている私たちをも教え導くためのものです。「聖書から忍耐と慰めを学んで 希望を持ち続けることができるのです」と書いてあるとおりです。

みなさまは、聖書からなにを学んでおられますか。

パウロは、神のご計画がイエス・キリストのうちに実現したことを力強くのべます。また、キリストがどのように私たちを受け入れてくださったかを思い起こさせ、同じように各自が他者を受け入れるようにと言います。他者を認めることがどれほど神をたたえることであるかをもパウロは伝えています。

パウロは神と人とを結ぶ三つのこと、(1)聖書、(2)賛美、(3)イエス・キリストを述べていますが、この3つ視点から今日の第2朗読をゆっくり味わい、かみしめられてはいかがでしょうか。

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待降節第2主日には、A B C 年とも、荒れ野に主の道を備える洗礼者ヨハネが登場します。

今年読まれるマタイ福音書にとって、洗礼者ヨハネは、「荒れ野に叫ぶ声」として、「主の道を整える」ために遣わされるとイザヤから預言されたことを成就する者です。また、預言者エリアのように「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」ています。

マタイは、洗礼者ヨハネの出現の「時」、「場所」、「メッセージ」を順よくのべ、その上、イザヤ書を引用してその神学的位置づけを行っています。次に洗礼者ヨハネの預言者としての風格、彼のもとに来る群衆について語ります。

荒れ野とは、人間のいっさいのものがはぎ取られ、人の心の真実が暴露されてしまうところ、人間の力の及ばないところ、通常の人間の考え、計画を受け付けないところ、つまり神の領域の場です。ここで洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ……」と呼びかけます。

洗礼者ヨハネのもとに集まってくる人々は、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けます。

なんと今日の福音の中に「悔い改めよ」、「悔い改めにふさわしい実」、「悔い改めに導くために……」と「悔い改め」という言葉が、3回も使われていることに注目したいものです。

洗礼者ヨハネの説教は、終末的な威嚇、終末接近の緊迫感で満ちています。「神の怒り」、「おの」、「火」、「脱穀場」、「殻」などのイメージが登場します。

同時に、「荒れ野」「悔い改めにふさわしい実」「石からでもアブラハムの子を造り出せる」神の力、洗礼による心の備えなども語ります。なによりも、キリストの到来を告げて、「天の国が近づいた」と言います。

イエスご自身、この洗礼者ヨハネのことを「来るべきエリア」(11章14節 参照)と紹介します。

洗礼者ヨハネは、今も終末に臨む教会で私たち一人ひとりに語りかけています。その声を聞くべく、私たちは荒れ野に行くのです。

今日の荒れ野とは、どこなのでしょうか。
  今日の私に、救い主を迎えるために、主はどのような回心を促しているのでしょうか。

祈り

救いの源である神よ、
  キリストのからだに結ばれて祈ります。
  あなたのことばに信頼をおき、キリストの道を力強く歩むことができますように。
集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 11章1~10節

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。

狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみその子らは
共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 15章4~9節

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで
希望を持ち続けることができるのです。

忍耐と慰めの源である神が、
あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ声をそろえて、
わたしたちの主イエス・キリストの神であり、
父である方をたたえさせてくださいますように。

だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

わたしは言う。
キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。
それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、

異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、
あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです

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マタイによる福音書 3章1~12節

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、
いなごと野蜜を食べ物としていた。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、
また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、
人々がヨハネのもとに来て、

罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、
洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

悔い改めにふさわしい実を結べ。

『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。
言っておくが、神はこんな石からでも、
アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

斧は既に木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

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