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教会カレンダー

A年 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

第1朗読 使徒言行録 2章42~47節

第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

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復活祭からちょうど1週間経った今日、私たちは「主の日」を再び迎えます。すべての日曜日が「主の日」と呼ばれるのは、主キリストの復活を祝う日だからです。「週のはじめ……神の家に集い」と典礼聖歌(NO.392)にあるように、キリスト者は毎日曜日教会に集います。

キリストが復活された「週のはじめの日」は、教会の中では週のもっとも大切な日となり、その8日ごとに、つまり日曜日ごとに「主の日」として、パンを裂き、復活を祝うために集うかけがえのない日となりました。パンを裂く度ごとに、「主の死をおもい、復活をたたえ」るのです。

今日、この「主の日」の意味を特別に考えてみるのも良いかもしれません。
 「主の日 ― 日曜日の重要性」について、教皇ヨハネ・パウロ2世が書簡を出しておられます。教皇はこれを「もう一度読んでくれるならうれしい」と言っておられました。ぜひ、この機会に、読んでみられてはいかがでしょうか。

復活節第2主日は、教会の伝統のなかでは、「白衣の主日」と呼ばれています。

復活祭の喜びの中で、再び主日を迎えた新しい受洗者たちです。この日まで、新しい受洗者は、神のいのちをうけて新しい人となったしるしとして、白い衣をつけることになっていました。今日は、それを脱ぐ日だったので、「白衣の主日」と呼ばれていました。これから後、一人前の信徒として生活します。

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第1朗読の使徒言行録は、第3福音(ルカ)と同じ著者によるもので、新約聖書全体の4分の1を越えるものです。量だけでなく使徒言行録は、教会ではじめて書かれた教会史としても大切なものです。

聖霊の働きによって強められた弟子たち、使徒パウロが聖霊によりはばからず、妨げられることなくキリストをのべ伝える状況が書かれています。このため、「使徒言行録」は、「聖霊の行録」とも呼ばれています。

今日読まれる箇所は、主の復活の力により誕生した最初のキリスト者の生活、つまり教会のはじまりの様子が述べられています。

ここに描かれているキリスト者の姿に、本来の教会のありかたをみることができます。

復活節の主日、週日にはこの「使徒言行録」が読まれます。この機会に、使徒言行録を読みながら、初期キリスト者の生活をたどってみませんか。

今日の答唱詩編は、復活8日間の締めくくりとして、復活の日と同じ答唱詩編(詩編 11.8)が唱えられます。答唱句は「今日こそ、神が造られた日、喜び歌えこの日を共に」です。

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第2朗読は、ペトロの手紙です。これから5週続けて読まれていきます。この手紙は回心して洗礼を受けた人たちに語られた説教がもとになっていると言われており、そのため復活節に非常に適している書です。

今日読まれる箇所も、洗礼によってはじまる新しいいのちのすばらしさと、救いの喜びを語っています。

ある聖書学者は「洗礼の賛美」がペトロの手紙の中に見い出されるといっています。

  (1) 1. 3~ 5

  (2) 3.18~22

  (3) 2.22~25

  (4) 4. 5~ 9 です。

「洗礼の賛美」、洗礼によってはじまる新しいいのちのすばらしさという視点にたって、この書を深めてみるのはいかがでしょうか。

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今日の福音の箇所は、ヨハネ福音書による「聖霊降臨」とよばれ、ABC年とも共通朗読箇所になっています。

今日の福音が伝える2つの主のご出現は、復活信仰と、将来の教会のいのちにとって大切な意味をもっています。弟子たちへの出現、トマへの出現も復活の8日目、主の日に起こりました。どちらも弟子たちが集っていたときの出来事でした。

イエスを十字架の刑により処し、殺してしまった人々への恐ろしさと自分たちのふがいなさ、弱さを痛切に感じた弟子たち。師イエスを捨て、裏切ってしまった自分たちの卑怯(ひきょう)な心をいやと言うほどに味わっていた弟子たち。

福音書は弟子たちが、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と伝えています。彼らは用心深く戸を閉めることにより、主に対しての扉を閉めることになるなどとは思っていなかったでしょう。

しかし、イエスにとってこの閉ざされた戸でさえ、入って来られるための妨げにはなりませんでした。

こんな弟子たちの中にイエスが来られ、しかも真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。

私たちも、イエスが来られるのを待ち望みながらも、いろいろの恐れのゆえに、扉を閉めることはありませんか。

この変動の激しい、不安な世の中に生きている私たちです。現実の生活から打ち倒されそうになることは、人生の中で一度や二度は訪れることでしょう。

復活されたキリストに目をあげ、キリストの姿の前に自分の心を差し出すとき、そのただ中に立たれ、弟子たちに言われた同じ言葉、「あなたがたに平和があるように」と今日も語ってくださるに違いありません。

祈り

 あわれみ深い神よ、
  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
  信仰に生きることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 2章42~47節

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 すべての人に恐れが生じた。
 使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。

 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、

 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、
 家ごとに集まってパンを裂き、
 喜びと真心をもって一緒に食事をし、

 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
 こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

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第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。
 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、
 死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

 また、あなたがたのために天に蓄えられている、
 朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、
 神の力により、信仰によって守られています。

 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。
 今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、

 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、
 火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、
 イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、
 言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、
 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
 弟子たちは、主を見て喜んだ。

 イエスは重ねて言われた。
 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
 わたしもあなたがたを遣わす。」

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
 「聖霊を受けなさい。
 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
 彼らと一緒にいなかった。

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
 トマスは言った。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
 また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
 わたしは決して信じない。」

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 それから、トマスに言われた。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 イエスはトマスに言われた。
 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
 それはこの書物に書かれていない。

 これらのことが書かれたのは、
 あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
 また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

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