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教会カレンダー

B年 年間第10主日

第1朗読 創世記 3章9~15節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 4章13~5章1節

福音朗読 マルコによる福音書 3章20~35節

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マルコ福音史家

イエスと共に弱さを生き抜くことが、今日の典礼のテーマとなっています。

裸は聖書の中で弱さを意味するということです。
人祖たちは、裸を弱く恥ずかしいと考え、隠します。アダムに神は「どこにいるのか」と呼びかけられます。背いた人間に呼びかける神の声が、心に響いてきませんか。
人が神に救いを求めるとき、真に強い者に変えられます。

使徒パウロは自分の弱さを強く感じ、神に頼ることこそ最大の力であるとの確信にいたります。「日々新たにされて」いったパウロは、神に創られた弱さ、神の前の弱さを知り、イエスによって強い者に変えられました。

悪霊を追放できるほどに強い人が、十字架上で弱さを生き抜きました。
イエスを遣わして、すべての悪にまさる力を示してくださった神に信頼して歩むことができるように祈りましょう。

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第1朗読は、「楽園追放」ということで知られている創世記が読まれます。
主なる神から「どこにいるのか」と問われたアダムは、「恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えます。ここから理解できることは、裸を隠すものと考えています。

今日朗読された箇所の前には、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と書かれているので、この時点では隠す必要がなかったのです。覆わなくてはならなかったのには、理由があります。
今日の朗読箇所の少し前に、そのことを語るエピソードが描かれています。
「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」との蛇の誘惑によって、道を外してしまったのでした。

神に指摘されたアダムは罪をエバに転嫁し、エバも罪を逃れる回答をします。 わたしたち人間の生の姿、弱さでしょう。この人間の弱さを認め、受け入れるのではなく、隠しただけなのです。

壊れた神との関わりが修復されるためには、長い年月が必要でした。
それは人間の働きによるものではなく、神への信仰への道です。

今日の答唱詩編にあるように、「神よ、深いふちから、あなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を聞いてください」と祈ります。
この詩編は、罪からの回心をあらわし、罪の自覚の中で神に希望をもって祈る詩編として祈られてきました。
今日の答唱詩編を作者と心をあわせ、民と連帯しながら、ゆっくりと祈ることにいたしましょう。

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第2朗読は、コリントの信徒への手紙二からです。
パウロは、「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と、詩編116を引用し、詩編作者と「同じ信仰の霊を持って」いると述べます。そして、イエスを中心とする交わりも知っていると。

使徒パウロが信じ、語るのは信仰の霊によるものです。
信じる者は、内に閉じこもらず外に向けて語る者になります。それは、主イエスとの交わりが、「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるため」だからです。

だからパウロは、落胆しないのです。地上の一時的困難は、神に満たされている限り、疲れ果てることはないのです。
パウロは苦難の中にあっても神への信仰、信頼によって永遠の希望を語りつづけるのです。

この手紙をつづったときのパウロの状況を思うときに、迫害の過酷さの中にあって、自分の弱さを自覚し、死者を復活させる神への信頼を最大の強さ、力として生きるパウロの姿に心を打たれます。

わたしたちも、「わたしたちは落胆しません」とパウロと共に宣言できる恵みを祈り求めましょう。

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今日読む福音の前には、「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。神の国を宣教し、悪霊を追い出すイエスの元には群衆が集まってくるのです。
このイエスを群衆も、弟子たちも理解していたわけではありません。それどころか、イエスを否定する人々もいたのです。

今日の福音書で登場するのは、イエスを取り押さえようときたイエスの身内の人たち、エルサレムから下って来た律法学者たちです。彼らは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っています。
両方とも、イエスの真実の姿を見落としてしまっています。
悪霊を追放するイエスは何者なのか、ということが今日の典礼のテーマとなっています。
イエスは、たとえを用いて語られます。

今日の福音は、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」と始まっています。
この直後にイエスの「悪霊を追い出している」出所について「ベルゼブル論争」、イエスの身内のことが述べられています。これを心にとめながら、もう一度福音を読んでみると、マルコ福音書においては神の国と深く関わっています。ベルゼブル論争は1章21~28節にも述べられているので、読んでみてください。

イエスに対する身内の無理解は、メシアとしてのイエスへの無理解の1つのテーマとなっています。
イエスと身内との関係の軋轢を語るエピソードについて、記述されたのには、マルコが意図することがあるようです。何を言いたかったかを見るには、その前後関係を見ていく必要があります。

12使徒の選び(3/13~19節 今日読まれる前の叙述)
      身内との軋轢(身内の人たち 20~21節)
            ベルゼブル論争(22~30節)
      身内との軋轢(イエスの母、兄弟 31~35節)
「種を蒔く人」のたとえ(4/1~9節)

これらを見ると、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との問いに対して、イエスは、「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と述べます。

イエスの元に集まってきた群衆が、自分の身内中心や自分中心の生き方から外に立つときに、イエスの真の身内の人になります。

教皇フランシスコの『福音の喜び』「出向いていく教会」で、「自分にとって快適な場所から出て行って…」との言葉が思い出されます。こうしてわたしたちは、血のつながりではない新しい身内に出会えるのではないでしょうか。

祈り

希望の源力である神よ、
  あなたはひとり子イエスを遣わして、
  すべての悪にまさる力を示してくださいました。
  わたしたちが罪の暗闇に迷うことなく、
  あなたに信頼して歩むことが出来るよう、
  この集いを聖霊で満たしてください。
   集会祈願より

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第1朗読 創世記 3章9~15節

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」

彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。
わたしは裸ですから。」

神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。
取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」

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第2朗読 コリントの信徒への手紙二 4章13~5章1節

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、
それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。
主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、
あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

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福音朗読 マルコによる福音書 3章20~35節

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。
「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。
まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
はっきり言っておく。
人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
大勢の人が、イエスの周りに座っていた。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
周りに座っている人々を見回して言われた。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

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