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教会カレンダー

C年 キリストの聖体

第1朗読 創世記 14章18~20節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

福音朗読 ルカによる福音書 9章11b~17節

キリストの聖体の祭日は、本来、「三位一体の主日」の週の木曜日に祝われますが、日本ではこの日が守るべき祭日でないので、「三位一体の主日」の次の日曜日に祝います。

「聖体の秘跡」に対して、教会はいつも最大の尊敬をはらってきました。主の生涯の出来事を祝ってきた教会は、今日、主の形見ともいうべき「聖体の祭日」を祝います。「私の記念としてこれを行いなさい」との主の命令によって、「主の晩餐(ばんさん)」の記念は初代教会から大切にされてきました。

今日祝う「キリストの聖体」の記念祭儀が定められたのは、13世紀のことです。教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。世界各地では、この日聖体行列を行うところも数多くあります。

この祭日の目的は、人類に対する神からの恵み、愛の結晶である「聖体の秘跡」について公に感謝することです。

聖体の秘跡に集約されるキリストの恵み、キリストの体をいただく、この恵みの深さは、生涯味わいつくすことができないでしょう。しかし、この日特にこれを覚えて記念するのです。

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第1朗読では、創世記からメルキセデクのパンとぶどう酒奉献の記事が読まれます。

創世記14章は、旧約聖書の最初の戦争についての記事です。アブラム(アブラハムのこと)と別れ、ソドムに住んでいた彼の甥ルトが捕虜として連れ去られた時、それを伝え聞いたアブラムが駆けつけ、救出するという出来事が語られます。今日の箇所は、後に挿入されたと言われています。この箇所は旧約聖書の歴史伝承の中でも難しく、非常に論議の的となった箇所です。

この短いメルキセデクの話は、「ヘブライ人への手紙」7章に見られる解釈により、創世記のこの箇所が重要視されるようになりました。

メルキセデクは、「いと高き神」の祭司であり、サレムの王です。
 信仰の父として神に選ばれるアブラムが、祭司より「神から祝福された者」として祝福されました。アブラムは、「すべての物の十分の一」を祭司にささげ、神への賛美と感謝をします。

神が人間に祝福という力を与えてくださるので、人は神に賛美と感謝を帰すことができます。この神と人との応答関係が礼拝です。

この朗読を聞きながらパンとぶどう酒を前に祈る彼の姿は、キリストを思い起こさせませんか。

教会が聖体の祝日にメルキセデクのことを思い起こさせるのは、「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、メルキセデクをとおして王であり大祭司であるキリストの犠牲とキリストの聖体の神秘の必要性を、私たちに思い起こさせているからでしょう。

パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、感謝の祭儀でイエスが聖体拝領で人を訪れてくださった、その訪問の答礼として、会員が聖体訪問をして賛美と感謝、痛悔と嘆願をすることを定め、この聖体訪問を伝えるように願っています。

私たちをいつも祝福してくださり、訪問してくださる神への応答として、聖体訪問をなさってみませんか。

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第2朗読では、コリントの信徒にあてたパウロの手紙、あの有名な箇所が読まれます。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」とはじまる今日の朗読箇所は、聖体祭儀についての最古の伝承として、また共観福音書に書かれている最後の晩餐の記述と共に教会で大切にされてきたものです。

ユダヤの社会では、家長による感謝の祈りで食事をはじめるので、最後の晩餐の時にイエスが「パンを取り、感謝の祈りをささげた」のも普通のことでした。しかし、イエスはこの会食に特別の意味を与えたのです。つまり、パンは「キリストの体」であり、イエスがみなに飲むように回されたぶどう酒の杯は「新しい契約」のしるしなのです。

初代教会では、主の晩餐を祝うために集まった時には、会食もしていました。パウロが手紙を書いたコリントの教会でもこの習慣は実行されていました。しかし、キリストにより新しい意味のあるこの食事に対し、勝手な振る舞いをする信徒たちがいるのを知ってパウロは「主の晩餐についての指示」、「主の晩餐の制定」、「主の晩餐にあずかるには」と述べ、「主の晩餐」を祝うためのふさわしい態度は、主ご自身に由来するのだということを説くのです。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と、パウロはここに重点をおいています。

今日のパウロの朗読は、今日 感謝の祭儀をささげる私たちにも、それは特別な意味をもっているのだとパウロは伝えています。あなたはこのパウロのメッセージをどう受け止めますか。

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今日の福音は、「すべての人がたべて満足した」ことを語るルカ福音書からです。パン五つと魚二匹をイエスが祝福して弟子に与え、イエスの後を追ってきた群衆にそれを配ると「すべての人が食べて満腹し」、さらに「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」という記述です。

このルカによるパンの増加の奇跡の記述は、22章の聖体制定の記事、24章のエマオへの弟子たちの記述と近くなっているので、聖体との関係が他の福音史家と比べて、より明らかに示すものと言われています。

この奇跡が実際に起こったかどうかを議論するより、この奇跡物語を書いたルカの視点、意図していたことに立ってこの物語を読む必要があります。

ルカは何を伝えたいと望みこの記事を書いたのでしょうか。まず、ルカは他の福音史家とは違う文脈にこの物語を入れました。それを意識しながら、共観福音書を見て、他の福音書と比較しながら読んでいくと、ルカの違い、特徴に気づくでしょう。この機会に読んでみられることをおすすめします。

キリストは、ご自分に何かを求め集まってくる人々を拒むことなく受け入れられます。今日の奇跡の物語には、イエスのもとに集まってくる人々の心と、それに応えるキリストの心の豊かな交わりがあります。

初代教会の人々は、主の食卓を糧とし、キリストのあのわざ、キリストの交わりは、自分たちの上にも働いていると心から信じ、確信していたのです。

キリストは、弟子たちに言われたように、今日も「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになっておられます。キリストとの親しい交わりをあなたがたが与えなさいと。

祈り

恵み豊かな父よ、
  御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を
  教会に残してくださいました。
  主のからだを受け、
  救いの力にあずかるわたしたちが、
  主の死を告げ知らせることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 創世記 14章18~20節

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、
パンとぶどう酒を持って来た。

彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。

敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

また、食事の後で、杯も同じようにして、
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

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福音朗読 ルカによる福音書 9章11b~17節

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、
治療の必要な人々をいやしておられた。

日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群衆を解散させてください。
そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。
わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」

しかし、イエスは言われた。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、
このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、
天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、
裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

すべての人が食べて満腹した。
そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

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