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教会カレンダー

C年 聖家族

第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節

第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節

福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節

クリスマス後の最初の日曜日には、イエスの幼年時代の挿話を聞きながら、家族の意味を考えます。ナザレの小さな家庭に目を注ぎながら、私たちの家庭を顧みるのです。いつの時代も、社会的に家族が大切な役割を果たしてきました。一人ひとりの一生を、左右するほどの影響力を家庭が持っているといっても過言ではありません。

イエスの生涯においても、マリアやヨセフと共に過ごした日々は、人となるために大切な時期でした。家庭というのは、最も小さな社会です。新しいいのちの誕生を神の恵みとして体験し、未来への希望を神に託した家族の物語から、今日の私たちの家庭、家族のために教会は祈ります。

ナザレの家庭に目を注ぎながら、神の望んでおられる人類の一致と平和のために祈りましょう。平和は、家庭という小さな共同体からはじまるのではないでしょうか。

今日ほどいろいろの面で、家族の平和が脅かされている時代はないのではないでしょうか。ナザレの家庭も、当時平和を脅かされる状況の中にあったにちがいありません。家族を守っていただけるよう、彼らに取り次ぎを願いましょう。

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第1朗読は、ABC年共通の箇所としてシラ書を読むこともできますが、C年固有のためにはサムエル記上が読まれます。

サムエル記は、士師たちの時代が過ぎ、いよいよ王がイスラエルに登場することになるいきさつが書かれたものです。

サムエル記は、一人の女性ハンナの信仰物語から出発しています。彼女は子のないのを憂い、神に祈り、その祈りが聞き入れられて生まれた子をサムエルと名付けました。

ハンナは、神に誓ったとおり、その子サムエルを神にささげました。やがてサムエルは、神の召命を受け、黙示を与えられます。

このハンナの物語は、なんの飾り気もない家庭の出来事から書かれています。ハンナというのは、恵みという意味です。ハンナの夫エルカナはハンナに子がなかったので、もう一人の妻をめとったと思われます。この時代、多妻の風習はまれではなく、モーセの律法も黙認していました。子がないということは、ヘブライの女性にとり屈辱で、ハンナを「敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた」ので、ハンナはその心の苦痛を神に訴えたのでした。

祈りが聞き入れられ、子どもを産めない女性と言われたハンナからサムエルが誕生したということは、神が特別の恵みを示されるということを意味していました。

わたしはこの子を授かるようにと祈り、
主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。
わたしは、この子を主にゆだねます。
この子は生涯、主にゆだねられた者です。

このハンナの祈りには、非常に心打たれるものを感じます。

この朗読が選ばれているということは、親が子の前にもつべき姿勢を語っているのではないでしょうか。聖家族のイエスに対してもっておられた姿勢が、オーバーラップしてきませんか。

サムエル記のこの後を読んでいくと、ルカ福音書への影響が伺いしれます。この機会に読んでみてはいかがですか。

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第2朗読も第1朗読同様、ABC年共通の箇所としてコロサイの信徒への手紙を読むことができますが、C年固有のためには、ヨハネの手紙から読まれます。

ヨハネは、「わたしたちが神の子と呼ばれる」ほど、神が私たちを愛してくださっているといいます。人が「神の子である」ことは神の特別のたまもの、恵みによることです。

ヨハネは続いてキリスト者の特権について、つまり、「御子が現れるとき、御子に似た者となる……そのとき御子をありのままに見る」ことを伝えています。

今日の朗読は、「互いに愛し合うこと」、このイエスのご命令を生きる人には、「神もその人の内にとどまって」くださると閉じています。

ヨハネは神の子として、愛に生きることこそ必要であることを繰り返して語り、愛の道を示しています。聖家族こそこの愛に生きた模範なのです。

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福音書は、イエスが12歳の時のエピソードと、ナザレにおけるイエスの生活について述べています。

出エジプト記や申命記によると、パレスチナに住まう成人男子は、過越祭、五旬祭、幕屋祭と年3回、エルサレムの神殿にのぼり、神の前にでることが定められていました。今日の福音によると、イエスの「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をし」、「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」とはっきり書かれています。

祭りの期間が終わり、一同が家路についた時、イエスがエルサレムに残ったことを、両親は気づきませんでした。両親はイエスを探しても「見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した」のです。両親の心配、不安、狼狽はどれほどであったでしょうか。

エルサレムに引き返した両親は、イエスが「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」のです。その時のマリアとヨセフの驚きと喜びは、筆舌につくせないものがあったのではないでしょうか。その気持ちが伝わってくるようです。

行方不明になっていたイエスを見つけ、「なぜこんなことをしてくれたのですか……」と思わず発したマリアの問いに、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とイエスは答えます。

とても心配していた親に向けられたこのイエスの言葉は、非常に冷たく響きます。
 イエスのこの言葉は、なんと、福音書にでてくるイエスの最初の言葉なのです。人間味のないようなイエスの言葉です。イエスには、親の立場や気持ちを理解する心がなかったのでしょうか。

「イエスはエルサレムの神殿に残った……」とは、つまり、今まで両親のもとで育まれてきたイエスが成人し、「天のおん父がイエスに与えられた使命」、自分の人生を歩みはじめることを自覚した時であった、といえます。

「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とあります。
 マリアは、神のお告げの時以来、イエスが神の子であると十分わかっていても、それが実際の生活の中でどのような形をとり、どのように展開していくかについては、彼女にもヨセフにも明確でなかったということです。

私たちにとって、日常の生活の中で、すべてが神のみ旨の中にあり、神に向かうものであることを見つめ続けることは、並大抵のことではありません。私たちには、神に向かう歩みの中で、人生の現実を見つめて生きるという課題が与えられているのです。

この出来事の後、イエスは「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」、マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」とあります。そして、福音は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と結びます。

アルベリオーネ神父は、「キリストが一人ひとりの中に形づくられるまで」のイエスにおける私たちの成長の道のりを、ナザレの生活、学舎でのイエスを原型とするように、と提言しています。

実にイエス・キリストの33年の人生の30年をここ、ナザレの聖家族のもとで過ごされ、聖書を学び、祈りを学び、働くことを学び、謙遜の生活を送られ、潜心と沈黙の家から宣教へと旅立って行かれたのです。

今日は、このナザレの聖家族に耳を傾けて祈る一日、我が家を顧みる一日として過ごしてはいかがですか。

祈り

恵み豊かな父よ、
あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節

ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。
主に願って得た子供なので、
その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと
自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、
ハンナは行こうとせず、夫に言った。
「この子が乳離れしてから、
一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。
そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」

乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、
麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、
その子を連れてシロの主の家に上って行った。

この子は幼子にすぎなかったが、
人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。

ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。
わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。

わたしはこの子を授かるようにと祈り、
主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。

わたしは、この子を主にゆだねます。
この子は生涯、主にゆだねられた者です。」
彼らはそこで主を礼拝した。

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第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。
それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、
事実また、そのとおりです。
世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、
自分がどのようになるかは、まだ示されていません。
しかし、御子が現れるとき、
御子に似た者となるということを知っています。
なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、
神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。

その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
神がわたしたちの内にとどまってくださることは、
神が与えてくださった“霊”によって分かります。

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福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエスが十二歳になったときも、
両親は祭りの慣習に従って都に上った。

祭りの期間が終わって帰路についたとき、
少年イエスはエルサレムに残っておられたが、
両親はそれに気づかなかった。
イエスが道連れの中にいるものと思い、
一日分の道のりを行ってしまい、
それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、
話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

両親はイエスを見て驚き、母が言った。
「なぜこんなことをしてくれたのです。
御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

すると、イエスは言われた。
「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」

しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
それから、イエスは一緒に下って行き、
ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。
母はこれらのことをすべて心に納めていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

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