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第158回 人間間の平等と相違


2 人間間の平等と相違

人間は、全て神によって造られました。創世記に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(1.27)と書かれています。それだけではなく、私たち人間は、同じ理性的霊魂が神から与えられている存在です。ですから、私たち人間の起源と本性とはみんな同じものです。

さらに、すべての人間は、キリストの犠牲によってあがなわれ、同じ神のご計画のうちにある完全な幸いにあずかるように、召されています。ですから、すべての人間は、平等な尊厳を持っているのです。

人間は本質的に、人格として尊厳を持っており、その尊厳に由来する人権という点ではまったく平等です。

では、次に私たち人間が、平等でもあるのですが、個々人に相違があるということについて触れてみましょう。

ご自分の体験からもわかるように、私たちが生まれたときには、自分に必要な肉体的・精神的発達のすべてをそなえているわけではありません。他の人の助けが必要な存在です。

マタイ福音書25章14節~30節、また、ルカ福音書19章11節~27節を開いてください。ここは、「タラントンのたとえ」と言われている聖書の個所です。ここから、おわかりのように、「タラントン」は平等に神がくださっているわけではありません。

その相違は、年齢、身体的能力、知的能力、倫理的能力、これまで各自が経験した人間同士の交流、富の配分などに表れています。

このような相違は、神のご計画に基づいているものです。神のお望みは、私たちが自分に必要としているものを、他の人から受け、また、特別な「タラントン」を与えられている人は、その助けを必要としている人に、分けることを望んでおられるのです。

こうして、私たち一人ひとりが違うということは、寛容、好意、分かち合いを促す機会となります。さらに、この分かち合いが義務づけられることもあります。また、種々の文化が違うということは、相互に豊かなものとなるための刺激を与える機会ともなります。

気をつけなければならないことは、この社会には不正な不平等があるということです。不正な不平等は、相違ではなく、福音の精神に反するものです。

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