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第174回 キリスト教的聖性


4 キリスト教的聖性

今回は、「キリスト教的聖性」についてのお話に入ります。まず、「キリスト教的聖性」とはどんなものなのでしょうか。

わたしたちキリスト信者はすべて、例外なく、キリスト教生活の完成と完全な愛に至るように召されています。くどいと思われるかもしれませんが、繰り返しますと、キリストを信じ、洗礼を受け、神の子とされた人は、大人も子どもも、年寄りも赤ちゃんも、男性も女性も、どこの国の人でも、社会的に地位のある人も、ない人も、どの時代に生きていても、すべての人にこの聖性への招きが、神から与えられているのです。

マタイ福音書には、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5:48)というイエスのお言葉があります。イエスがこのように、すべての人に向けておっしゃっているということは、イエスが、いつも私たちのために恵みを準備してくださっているということでもあります。このイエスのお言葉に信頼して、イエスの道を一歩一歩、歩んでまいりましょう。

こうして私たちは霊的に進歩し、キリストとのいっそう親密な一致を目指していきます。このキリストとの一致は、「神秘的」な一致と呼ばれます。それは、「聖なる秘跡」によって、キリストとの神秘にあずかり、さらに、キリストに結ばれた私たちは、三位一体の神秘にあずかる者とされるからです。

わたしたちが、神の子とされ、日曜日ごとにミサにあずかり、キリストの御からだと御血をいただき、キリストと一致することによって、父と子と聖霊の、愛の交わりの中に招きいれられるのです。

わたしたちのこのような歩みは、聖性への道を歩いていくことであり、「完徳への道」を歩いていくことでもあるのです。このような「完徳への道」には、十字架、苦しみはつきものです。キリストが歩いていかれた道をたどるのですから、自己放棄や自分との戦いがあるのは当然です。

それを突き抜けたところに、イエスが約束してくださったあの「幸い」があるのです。

わたしたちが、イエスとの交わりの中で、このような「幸い」を得るために、生涯の最後まで堅忍する恵みと補償を期待することは、正しいことです。

最後に、「要約」が付けられています。手抜きをせずに、読みましょう。

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