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第175回 母であり養育者である教会 –(1)



第3項 母であり養育者である教会 –(1)


しばらくお休みをしたために、読者の皆さまに大変ご迷惑をおかけいたしました。休んだために、どこをどのように考え、進んできたかをちょっとだけ見てみましょう。

わたしたちは、「キリストと一致して生きる」という第3編の、第1部「人間の召命、霊における生活」について、ずっと考えてきています。その中のいよいよ最後の部分に入ってきた訳です。「母であり養育者である教会」が終われば、第2部の「神の十戒」に入ります。

さあ、がんばって、教会についてカテキズムが、何を言おうとしているかを、聞いていきましょう。

洗礼を受けて、神のいのちを生きるものとされた私たちは、自分一人だけで、神さまと生きているのではありません。洗礼を受けたすべてのキリスト者との交わりのうちに、神が召してくださった召命を生きることができるのです。

洗礼を受けたわたしたちは、教会から、どんな恵みをいただいているでしょうか。まず、わたしたちは、神のことばを受け取っています。この神のことばには、聖パウロが言うように、「キリストの律法」が含まれています。

洗礼を受けたわたしたちは、キリストの足跡に従って、キリストの歩まれた道をたどっています。このキリストの「道」を歩くには、自分の力だけでは力つきてしまうでしょう。教会を通して、わたしたちは秘跡の恵みをいただき、キリストの道を、また一歩踏み出すのです。

これは、わたしたちの生活を振り返ってみたら、どんなに聖体の秘跡、ゆるしの秘跡を受けることによって恵みをいただいているかがよくわかると思います。その上、教会の歴史を見るとき、これまでキリストを生きてきた多くの聖人たちの聖性の模範から、多くのことを学んでいます。

まず、聖なるおとめマリアのうちに、聖性のあり方や聖性の源泉を見いだすことができます。その他、わたしたちが典礼暦で祝う数え切れない聖人たちの生涯を見るとき、霊的伝統やその聖性を見ることができるのです。

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