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 クレイドル・ウィル・ロック

2000年10月

クレイドル・ウィル・ロック


1999年 アメリカ映画 2時間14


「死」に向かう人間の恐怖と苦悩、その奥底にある、人間の愛と尊厳を社会に訴えた『デッドマン・ウォーキング』から5年。メッセージ性の高い作品を送り出してくるティム・ロビンス監督の最新作『クレイドル・ウィル・ロック』がいよいよ公開です。

物語

1930年代、大不況の嵐がアメリカ全土で吹き荒れていました。政府は、公共事業促進局の傘下のもと、“フェデラル・シアター・プロジェクト”を発令しました。

“フェデラル・シアター・プロジェクト”とは、失業している演劇人たちに職を与えるため、政府資金を使って、演劇製作や公演を推奨し、演劇関係の仕事を紹介することで、失業している演劇人たちを本業に戻そうというものでした。

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そんなある日、劇場の舞台裏に寝泊まりしている路上生活者の少女オリーブ(エミリー・ワトソン)が、職を求める“演劇人”たちに交じってならんでいました。

作曲家マーク・ブリッツスタイン(ハンク・アザリア)は、新しい作品を作り出せずに苦しんでいたとき、ふらりと立ち寄った公園で、労働者組合の集会が行われていました。警察は、半ば力ずくで集会を解散させてしまいます。しかし、そこで新しい作品のインスピレーションを受けるのでした。

そして生まれたのが、「表現の自由のために権力に立ち向かう」をテーマにした「The Cradle Will Rock(ゆりかごは揺れる)」でした。この作品は、“フィデラル・シアター・プロジェクト”に採用され、当時22歳のオーソン・ウェルズ(アガンズ・マクファデン)が、演出を担当することになりました。俳優たちのオーディションが始まり、オリーブは、ウェルズの目に留まり、主役を射止めます。

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他方、当時の上流階級に属する実業家たちは、金に物を言わせて芸術までも支配しようとしていました。若き大資本家ネルソン・ロックフェラーも、その欲望に取り付かれていたひとりでした。彼は、ムッソリーニの元愛人のマルゲリータ(スーザン・サランドン)から、ダヴィンチの名画を買い、絵画展のスポンサーにもなっていました。

“フェデラル・シアター・プロジェクト”のリーダー、ハリー・フラナガン(チェリー・ジョーンズ)は、政府資金による劇場公演を存続させようと奮闘していました。良質の演劇を保護していたにもかかわらず、それを理解しきれなかった部下の告発がもとで、非米的な演劇を広めていると疑われ公聴会で厳しく非難されてしまいます。

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そんな中、「ゆりかごは揺れる」のけいこは続いていました。しかし、オリーブが素人だとわかり、ウェルズとプロデユ―サーのジョン・ハウスマン(ケアリー・エルウィズ)は、けんかまがいの口論を繰り返します。挙げ句の果てに役者は台詞(せりふ)を覚えないし、セットは壊れるしで、実際に上演までこぎ着けるのかわからないありさまでした。

クレイドル・ウィル・ロック

結局、予算削減と人員整理のため、政府は、“フェデラル・シアター・プロジェクト”による新しい作品の上演を禁止することを決定してしまいます。ウェルズたちの「ゆりかごは揺れる」も、上演の前日に劇場は政府軍に封鎖されてしまいます。この様子を興味深く見ていた、鉄鋼王のグレイ・マザーズ伯爵夫人ラグランジェ(バネッサ・レッドグレイヴ)が、どこからかピアノを探し出し、彼らに協力しようと奔走します。

政府が決定した中止の指示に従わなければ、役者たちは即刻失業に追い込まれます。しかし、ハウスマンは、当初の、マキシーヌ・エリオット劇場から、21ブロック先にあったヴェニス劇場を確保します。自分たちの自分たちによる自分たちの演劇のために。

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劇場を移動するために、劇団員一同と観客が一緒になって、街を縦断する大行進に、わくわくしました。当時の組合の規定では、俳優は舞台に立ったら仕事をしたとみなされるため、ブリッツスタインだけが舞台の上でピアノを演奏し、キャスト一同は、観客に交じって客席に座っていました。

みながかたずをのんで見守っていると、どうでしょう。オリーブがおびえた表情で立ち上がり、歌い始めたのです。たったひとりの勇気が、みなの勇気を呼び覚ましたのです。俳優たちは、自分の出番になると、立ち上がって歌や台詞を言い始めました。背中がゾクゾクするほど感動しました。

他の生物と違って、人間だけが言葉や文字を持っています。自分が感じていること、考えていることを、よりよく分かち合うためにメディアは開発され、進歩してきました。この事実は、人間が、自分の「思い」を表現するためのコミュニケーションを心の奥底から望み、求めていることの表れではないでしょうか。

人間が、「表現すること」を抑圧されたら、それは肉体的ないのちだけでなく、精神的ないのちが十分に生きられない、奪われるほどのことなのだと、この作品を通して、あらためて感じさせられました。

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