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第2バチカン公会議から50年

教会刷新

エキュメニカルで社会に開かれた教会に

ジャン・ワレ

パリ外国宣教会宣教師 カトリックさいたま教区川越教会主任司祭

1958年に教皇に選ばれたヨハネ23世は、在位翌年の1月25日、聖パウロの回心の祝日に、聖パプロ大聖堂でのミサを終えるとき、ローマ教区の総会議開催と全世界を巻き込んだエキュメニカル(普遍的)の公会議開催を発表されました。みな驚きました。だれもそのような会議が行なわれるとは思いも寄らず、相談が持ちかけられてもいなかったからです。突然の発表でした。しかし、私はこれは確かに聖霊の働きだと思いました。聖パウロ大聖堂での聖パウロの回心の祝いのときに起きたことですから。

 当時私は前年の6月にフランスで司祭の叙階され、10月には勉強のためにローマに来ていました。すでに所属のパリミッション会から日本への派遣が決まっており、それも浦和教区に派遣されることになっていたのです。

 ローマにはバチカン公会議が始まるその年までいましたが、たくさんの準備委員会が開かれていました。世界各国から専門家や司祭たちが交代で来て、日本からも土井枢機卿や長江司教、田口司教、野口司教などがローマにおみえになり、その時点でマスコミ報道は非常に多く、この会議への期待も高まっていたと言えると思います。

 1962年9月、私は来日し、東京・六本木にあるフランシスコ会の日本語学校で日本語を学び始めました。そして10月11日、公会議が始まる、その開始を告げる鐘が世界中で鳴り響きました。私はたまたま四谷にいて、イグナチオ教会の鐘の音を聞くことができました。

 情報がさまざま流れる中で大きなポイントだったのはアジョルナメント=刷新。そして教会がエキュメニカルになっていくことでした。

 浦和教区の長井司教さまが第一セッションに参加した後、日本に代えられて、同じく公会議に参加された新潟教区の伊藤司教さま、仙台教区の小林司教さまと、このバチカン公会議の大きなテーマをまず日本人司祭にどう伝えるか、考えられました。さまざまな誤報もありましたし、また公会議のドキュメントも日本語には翻訳されていませんでした。私たち、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、アメリカなどから来た外国人宣教師たちは自分の国からの情報で、早くからバチカン公会議関係の資料をたくさん読めましたが、日本人の神父さまはカトリック新聞に掲載されるような簡単な情報しかありませんでした。それで、毎年一度、三教区の神父さまたちが一堂に会し三司教さま方を囲んで合同の勉強会を行い、バチカン公会議の説明がなされました。これが何年間か続きました。

 ドキュメントを日本語に訳すのに時間がかかりました。司教さまたちが翻訳作業をされたのです。長井司教さまは典礼委員長になられ、そして日本で目立った刷新は「典礼」でした。

 印象に残っているのはエキュメニカルな運動で、プロテスタント教会の方々との交流です。すぐに、近隣のキリスト教会の牧師さん、司祭さんたちと親睦的な集まりを持つようにして、情報交換や、それこそバチカン公会議についての話をしたり、当時はビアフラの干ばつ、飢餓のことがありましたので、一緒に募金活動などをしました。


 日本の教会がすぐに開かれた教会になったわけではなく、少しずつ精神を生きるように努力がなされていくなか、1981年2月、教皇ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問されました。そのことも含め、84年に日本の教会の基本方針が司教団から発表されて、87年「開かれた教会づくり」をテーマに京都で、司教、司祭、修道者、信徒による第一回福音宣教推進全国会議(NICE・ナイス)が開かれました。当時私はパリミッション会の管区長で男女管区長協議会議長をしていましたので、司教総会にもオブザーバーとして呼ばれ、バチカン公会議の精神が流れているのを感じました。日本の教会の三つの管区、東京、大阪、長崎の管区別に公聴会が開かれて全国会議が開催されたのですが、アジアに開かれること、中国の教会との交流なども、これを機にはじまりました。

 70年代から80年代にかけて、「ボートピープル」といわれたベトナムからの難民の方々が日本にもたくさん漂着されましたが、教会関係で多くの支援活動が始まりました。そこからも今にいたるまで、外国人の方々に開かれた教会の働きが続いています。最近も、難民として日本にたどり着くことができた子供が成長し、ここ、さいたま教区の司祭になったばかりです。またさまざまな外国人がたくさん来日しています。フィリピン、ブラジルを含む南米、そしてベトナム……。私のいるこの教会では、日本語のミサのほかに、ポルトガル語、ベトナム語、英語、タガログ語のミサがあります。これも結局はバチカン公会議の精神に基づいたものと思います。

 このほかにもアルコール依存症や薬物依存症の方々のためのAAやアラノン、ホームレスの方々や食料が不足している外国の方たちへの支援、以前幼稚園だった施設を隣の病院がデイサービスに利用したり、原発事故で放射能汚染から避難してこられた家族を受け入れたり、とさまざまなかたちで教会は社会に開いています。今回の大震災でもいわきにステーションがつくられていますが、ここの教会の信徒の方が責任者になっています。今の時代にどうしても開かれる必要がある、と思うのは精神的に参っている方たちへの支援ですが、いのちの電話のような相談サービスも行っています。これが超キリスト教派で活動している「希望のダイヤル」です。

 修道会としていえば、バチカン公会議で、各修道会は創立の精神に戻り、再確認を促されましたので、どの会も振り返りをしました。私たちはパリミッション会ですから、宣教論を再確認し、私たちの目的は、各国、地域教会の発展、召命養成のお手伝いをする、など、自分たちが派遣された国の教会の精神に沿って働いています。(談)


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