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日本のカトリック教会の歴史

2.天正少年遣欧使節

トーレスの宣教

1551年、日本を離れたザビエルに代わり第二代日本布教長となり、日本の教会発展の基を築いたのは、ザビエルと共にやってきたトーレス神父でした。

トーレスは、大友義長が毛利元就によって滅ぼされたため、山口から、大友宗麟の本拠豊後府内へ移り、この地を日本キリシタン教会の中心地とします。トーレスのもとには、イエズス会の最初の日本人入会者であるロレンソの他に、新たにイエズス会に入会した商人*1ルイス・デ・アルメイダが協力者として加わりました。

アルメイダ神父
アルメイダ神父

アルメイダは、府内に、私財を投じて孤児院を開き、さらに医師でもあった彼は、日本最初の病院を設立します。トーレスの布教は、宗麟の勢力拡大とともに、北九州から肥後へと伸びていきました。

また、肥前の大名2大村純忠(おおむら すみただ)の要請により、貿易のため横瀬浦(よこせうら)に港を開くことになりましたが、その歴史は短く、代わって長崎が開港され、国際港として発展していきます。

トーレスは、ザビエルの遺志を実現するために、関西方面にも布教に着手し、次第に僧侶や公家が、宣教師のもとを訪問するようになっていきました。このころ、キリシタン大名として名高い*3高山右近(たかやま うこん)も洗礼を受けています。

トーレスは、日本布教長を18年勤め、志岐の教会で亡くなりました。

セミナリヨとコレジヨ

織田信長
織田信長

1570年よりトーレスの後を継いだ*4フランシスコ・カブラルは、来日すぐに日本の教会を見てまわりました。当時の日本は織田信長の権力下にありましたが、彼はキリシタンに好意を示しており、信長との謁見をとおし、布教の発展も勢いよく伸びていきました。

1575年には、*5オルガンティノや*6ルイス・フロイス、高山右近(たかやま うこん)父子をはじめ五畿内のキリシタンと共に、有名な南蛮寺(なんばんでら)を建設しています。また、布教を保護してきた大友宗麟(おおとも そうりん)も1578年、カブラルの手で洗礼を授かっています。

カブラルが、トーレスの後を引き継いだころ、日本の信徒は約3万人でした。しかし、このころにはすでに10万以上の信徒が生まれていました。

けれどカブラルは、日本文化への適応策には批判的でした。そのため、日本人イエズス会士に対して厳しい態度を取り、会員たちに日本語の習得も勧めませんでした。そのため布教長側近の間では、会員同士の心情的対決が次第に深まっていきました。

1579年7月、巡察師*7アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本教会の不統率を見て教会改革を実施しはじめました(巡察師とは、イエズス会総長から布教地に派遣され、布教先の現状を視察し、困難な問題に対しては対策をとる権限を与えられていました)。

まず、財政・組織的問題の解決のために取った方法は、マカオとの貿易から財源の確保、日本準管区へと昇格、日本教区を三区に分けるなどでした。

また、日本の言語や文化、歴史の研究を推進し、日本宣教者の教育機関を充実させるために、セミナリヨ(小神学校)、コレジヨ(大神学校)、修練院の設立をはじめました。

最初のセミナリヨは、1580年に有馬に、次に、安土に建てられました。安土の最初の生徒のなかに、日本26聖人の一人*8パウロ三木が、有馬のセミナリヨの生徒には、最初の邦人司祭で、長崎の西坂で殉教した 木村セバスティアンがいました。

カブラルは、日本人の資質に疑問を抱き、布教方針についてヴァリニャーノと意見対立をしましたが、役職を解任されマカオへ異動となりました。

ヴァリニャーノは、この教会改革を勧めることで、将来は日本人司教による教会の財政・組織的独立を考えていました。さらに彼は信長に謁見し、キリスト教保護を手厚いものにしました。

天正少年遣欧使節

4人の少年使節
4人の少年使節

1582年、ヴァリニャーノは第一次日本巡察を終え、日本を離れる際、日本の少年たちを使節としてヨーロッパへ渡らせ、ローマ教皇と謁見させることを考えました。

使節の目的は、ヨーロッパ諸国のイエズス会の布教実績を見せること、又、ヨーロッパにおけるキリスト教世界を少年たちに見せ、高い評価を得させ日本の同胞に語らせる、というものでした。

伊東マンショは 大友宗麟の名代として、また、千々石(ちぢわ)ミゲルは有馬晴信と大村純忠の共通名代、また副使は原マルチノ、中浦ジュリアンが選ばれました。

正使:
伊東マンショ
日向の老大名・伊東義祐(よしすけ)の孫
マカオに戻って神学を学び、1608年 長崎で司祭となる。
1612年、長崎のコレジヨで死去。
千々石ミゲル
有馬晴純仙厳(はるずみせんがん)の孫で、大村純忠のおい、有馬晴信のいとこ
イエズス会を脱会して、大村喜前(よしあき)に仕える。
1606年、喜前が棄教すると、それに従った。
副使:
原マルチノ
大村の家臣の子で、波佐見(はさみ)出身
長崎のコレジヨで活発な活動をし、1608年 長崎で司祭となる。
小倉、日向、山口で司祭として働く。
1614年、マカオに追放され、1629年に死去。
中浦ジュリアン
大村の家臣の子で、西海町出身
マカオに戻って神学を学び、1608年 長崎で司祭となる。
潜伏司祭として島原、天草、八代、柳川、小倉で司牧。
1632年、小倉で捕らえられクルス町の牢で責め苦を受ける。
1633年、西坂で穴吊りの刑で殉教。

世界地図


注釈:
*1 ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583年)
 リスボンのユダヤ系家庭に生まれ、医学を学んだ。裕福な商人であったが、インドでイエズス会と交わり、1552年に来日する。
 日本滞在中、イエズス会で自分の生涯をささげることを決心し、私財を用いて孤児院などの慈善活動に協力し、1556年イエズス会に入会した。
 日本初の総合病院を設立し、医学によって人びとへ布教を行った。病をいやされた人びとは洗礼を求め、特に貧しい人びとに慕われた。彼は、トーレスと共に五島列島や天草、有馬で布教を開始した。
 1580年マカオで、司祭叙階。翌年 天草地区の院長となり、河内浦で亡くなった。
*2 大村純忠(1533-1587年)
 肥前西彼杵半島の領主。大村領内に良港を求めたポルトガル人たちの交渉に応じ、キリスト教に好意を示した。
 トーレス神父から受洗。日本初のキリシタン大名となる。洗礼名は、バルトロメオ。  領内の寺社を破壊し、領民をキリスト教に集団改宗させた。また、長崎を教会領として寄進した。これは、後の伴天連追放令の契機となったといわれる。
*3 高山右近(1552-1615年)
 高山飛騨守の長男として生まれ、幼いころ一族とともに洗礼を受ける。洗礼名はユスト。21歳で、高槻城主の地位を譲り受ける。
 南蛮寺建設に協力し、信仰の面でも教会で講話を行ったり、霊的読書をするなど人びとに模範を示している。
 1587年の伴天連追放令の際、淡路、小豆島へと流浪するが後に前田利家に仕えた。
 1612年、キリスト教禁令が出され、徳川家康の命により、翌年マニラに追放される。
 千利休の七高弟の一人で、「南の坊」という号をもつ。
*4 フランシスコ・カブラル(1533-1609年)
 ポルトガル生まれ。1550年にインドに渡航。1556年ゴアで、イエズス会に入会し、58年司祭叙階。
 1570年、来日し、日本布教長に就任。
 日本習俗への適応策に批判的で、ヨーロッパ人主導の宣教体制を維持しようとしたためヴァリニャーノと対立。
 1580年に布教長を辞任し、マカオに移る。
 1592年インド管区長を務め、ゴアで死去。
*5 オルガンティノ(1533-1609年)
 イタリアのブレーシア出身。
 1556年に、イエズス会に入会し、東洋の宣教を志した。
 インドの、サン・パウロ学院長を経て、1570年に来日。京畿の宣教を担当した。織田信長の厚意を得、十数回にわたり会談している。
 伴天連追放令によって、小豆島に潜伏しながら畿内との間を往復した。
 1604年長崎に隠退し、同地で死去。
*6 ルイス・フロイス(1532-1597年)
 ポルトガルの、リスボンに生まれる。
 1548年、イエズス会に入会し、インドに向かう。
 1561年、ゴアで司祭叙階。学院長や管区長の秘書として、その文才を評価される。
 1563年、来日し、翌年入京。織田信長に好遇され、十数回にわたり会談する。
 日本の教会の記録を多く残し、また、戦国末期から安土桃山時代の社会、文化、地方史研究において高く評価される。長崎の修道院で死去。
*7 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1605年)
 1539年ナポリで生まれ、ヴェネツィア領パドヴァ大学で法学を学ぶ。
 1566年にイエズス会へ入会し、34歳という若さで東インド巡察師に就任する。1570年司祭叙階。
 イエズス会巡察師として、3回日本に来日する。日本教会の財政、組織、教育機関を設置し、天正少年遣欧使節をローマに派遣する。また教育的観点などから日本へ印刷機を持ち帰り、印刷技術を日本人に習得させた。
 1603年に離日しマカオで布教、同地で死去。
*8 パウロ三木(1563-1596年)
 キリシタン武将 三木判大夫の息子。
 安土セミナリヨの第1期生。イエズス会のイルマンとなり、大阪で布教活動をしているとき捕らえられ、京都市中引き回しの後、長崎西坂で殉教。
 日本26聖人の一人として、遺骨は日本26聖人記念館に納められている。

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