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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第11回 マタイ5章1~12節


至福の(山上の垂訓)教会

5章から7章にわたる山上の説教はマタイ福音書に含まれる五大説教の最初のものです。細部を見るまえにその構成をみておきましょう。

5章1節~7章29節の構成

5.1~ 2 状況設定
   3~20 導入
    5.3~12 真の幸い
    13~16 社会における弟子の位置 地の塩、世の光
    17~20 律法の成就

マタイはイエスがこの世に来られたのは律法の目指すところを成就することであると強調するので、この部分は重要な意味を持ち、21節以下は、ある意味でこのことの解説と考えることもできます。

20節に「義」といういかめしい言葉がありますが、マタイ福音書の理解のために大切な単語です。くだいて言えば、神と人、あるいは人間同士の関係のなかで、当然保つべき態度を保っている状態を義と表現するのです。神はいつもあるべき有り様を保っておられますから「義であるおかた」です。人間に対する神の義は、神の救いやあわれみとほぼ同じ意味を持つことになります。一方、人間は神の恵みによって義としていただくのです。読み進むうちに少しずつ深められるでしょう。

5.21~ 48 他者に対する義の具体例
  6. 1~7.11 神に対する義(6.1 の「善行」の原語はディカイオシネー、すなわち「義」)
    6. 1~ 18 礼拝
     19~7.11 祈りの生活
    7.12 黄金律 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
  7.13~ 29 結びの警告 4つの形で決断を迫られる
    13~ 14 狭い門・細い道 対 広い門・広い道
    15~ 20 良い木・良い実 対 悪い木・悪い実
    21~ 23 主よ主よと言うだけの者 対 天の父の御心を行う者
    24~ 27 賢い人・岩の上に建てた家 対 愚か者・砂の上に建てた家

だれに向けて語られた説教か


至福の教会内天井

文頭を見る限り、直接の対象は弟子たちです。「座って(腰を下ろして)」とありますが、これは師が弟子に対して教えを説くときの典型的な姿勢です。けれども「イエスは群衆を見て山に登られた」とありますから、群衆を意識しておられます。しかも説教の結び7章28節には、イエスが語り終えられたとき、「群衆がその教えに非常に驚いた」とありますから、群衆も弟子たちを遠巻きにしてイエスの教えに耳を傾けていたことがわかります。

このようなことにこだわるには理由があるのです。マタイは意図的にこのように筆を運んだのだと思われるからです。マルコやルカの福音書に比べると、マタイでは弟子の位置づけが微妙に違っています。

マルコに見られる師の教えを悟るに鈍い弟子たちの姿は影を潜め、イエスのみ業をひきついでいく者たちとして弟子たちが描かれています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と述べて宣教を始めたイエスは、まずペトロたち4人の漁師に声をかけて弟子とし、ガリラヤ地方一帯を巡回されました。イエスは諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、民衆の病気をいやされました。そういうイエスに大勢の群衆が従ったと4章の終わりには記されています。弟子たちはその群衆に取り囲まれながら、親しくイエスの教えを聴き、たとえを解き明かしていただき、やがてイエスの復活後は、イエスに代わって福音を全世界に宣べ伝える使命を受けます。

マタイでは、群衆もまた将来弟子となる可能性のあるものとして、イエスの敵(ユダヤ社会の指導者たち)とは一線を画して描かれていくのです。読み進むにつれて、そのことはもっとはっきりしますが、この場面で著者はすでにそのことを予告していると思われます。

真の幸い 5章3~12節

I a. 3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
    4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
    5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
    6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

  b. 7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
    8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
    9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
    10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

II   11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
    12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

構造


至福の教会内聖櫃

IとIIの区分は人称の変化によって明らかです。Iでは「その人たち」と、三人称で語られていますが、IIでは「あなた方」と、二人称に変化しています。
 Iがひとつのまとまりであることは下線を付した「天の国は…」で囲われていることによって明らかです。

I a. ここで幸いと謳われている貧しい人、悲しむ人、柔和な人、飢えている人の4つの単語は原文を見るとそれぞれ “p”の音で始まっていますし、何らかの意味で抑圧されているとか、耐えるというニュアンスを持っている点でも共通しています。

I b. では「平和を実現する人」に顕著なように、抑圧をバネにしてかえって積極的に行動するといった面で共通しています。

II では人称が二人称に変化していますが、これはたぶんマタイの共同体の実情に合わせて先のことを言い換えているのかもしれません。いつの時代の読者も、最初は、ああそんなものかと読み進んでいても、ここまで来ると、突然あなたがたと言われて、はっとするのではないでしょうか。

解説

「幸い」と訳されている単語は、新約聖書では「人が神の国の救いによって得る宗教的な喜び」とでもいうものを意味しています。旧約聖書の伝統で「幸い」は、神と人と関係を示す概念です。わたしたちが普通に言う幸いとは、質的に違います。

ここでイエスは単なる慰めの言葉を述べておられるわけではありません。イエスが幸いであると言われるとき、単に貧しい人とか、悲しむ人への幸せ宣言ではなく、イエスによる救いを機軸とした人間の有りようが問題にされています。救いを前提として、人間がどのような関係をもってイエスとかかわるのか、ということが問われています。イエスが幸いだと言われるとき、イエスは律法と預言者を成就するかたとして語っておられるのです。

律法と預言者という表現はユダヤ人独特の表現で、旧約聖書全体を意味しますが、その旧約聖書を完成するかたとしてイエスは語っておられます。そして聖書全体を成就するイエスは、当然要求を突きつけます。幸いであるという言葉の根底にあるのは、イエスをとおして到来する新しい時代が実現するということです。そしてその新しい時代が意味する神と人間との終末的な和解を踏まえて、イエスは、幸いである、と語りかけられるのです。

 
至福の教会内聖櫃

もう一つこの説教を読む場合留意するとよい大切な点は、イエスのこの語りかけが意味を持つためには、これを受け入れる聞き手が必要、聞く耳を持つ人が必要だということです。まず耳を傾けることが人間に要求されます。脱線かもしれませんが、このことは生きざまをもってキリストの福音を伝える責任をも呼び覚ましてくれます。

マタイでは:3節と10節に「天の国は彼らのものである」が繰り返されています。ところが11節で突然「わたしのためにののしられ……悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と、直接聴き手に語り始めます。「心の貧しい人は幸いである……」を聴きながら、いったいこのような人はだれなのだろうかと思って聞いている弟子たちに、イエスは「幸いなのはほかならぬあなたたちなのだ。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるときのあなたたちなのだ」と言われるのです。まず一般的に語りかけることにより、それはいったいだれかという問いを弟子たちに呼び覚まし、最後に祝福されているのはあなたたちだ、と弟子たちに言われるわけです。

「幸いだ」という理由は「慰められ、満たされ、あわれみを受ける」など受け身の形で描写されていますが、それは神的受動態と言われる用法で、慰める……のは神であることを示しています。

「心の貧しい人」とはだれでしょう。イザヤ書7章1節には「わたしは高く、聖なるところ住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」とあります。旧約によく見られる「心砕かれ、へりくだる霊」であり、それはいったいどのような人かと探ってみると、同じイザヤ書の66章2節には「わたしの言葉におののく人」とあります。さらに詩編34の19節には「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」とあります。これらをみると、心の貧しい人とは 打ち砕かれた心であり、へりくだる霊であり、それは主の言葉を畏れる人であり、悔いる人であるということができましょう。

つまり主を主として認め、すべてを神にゆだね、神を敬い、神以外により頼むものをもたず、救いをひたすら神に期待して生きる人です。こうしてみると、以下に続くすべては、心の貧しいものに包含されていると言えるかもしれません。実際マタイ5章5節は詩編37の11節の引用ですが、ヘブライ語聖書では「貧しい人は地を継ぎ」とあるのを七十人訳聖書(古代ギリシア語訳旧約聖書)は「柔和な人は」と翻訳しています。

真の幸いを静かに口ずさみながらイエスを想い、エマオへ向かう道を2人の弟子とともに歩んでくださったあの主が、わたしとともに今、真の幸いの道を歩もうと傍らにおられるのに気づく恵みを願いましょう。

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