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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第29回 マタイ16章1~20節……(1)

16章1~20節は、二つに分けることができます。まず、概要をつかんでから、今回は前半の1~12節を見ていきましょう。

概要

16章1~20節は、4章1節から始まるガリラヤにおけるイエスの宣教の結びにあたる部分で、最後の13~20節はそのクライマックスといえましょう。次のように展開されています。

  1. 16.1~12 イエス、ファリサイ派とサドカイ派の人たちの要求を退け、彼らの生き様を否定される。
    1. 1~4 イエス、さらなるしるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人たちの要求を退け、立ち去られる。
    2. 5~12 イエス、ファリサイ派とサドカイ派の人たちの生き様を否定される。
  2. 16.13~20 イエスと弟子たちとの問答
    1. 13a 導入
    2. 13b~16 イエスと弟子たちの問答
      • 13b イエスの問い 「人々は人の子のことを何者だと言っているか」
      • 14 弟子たちの答え 「洗礼者ヨハネ、エリヤ、ほかに"エレミヤ"とか預言者の一人」
      • 15 イエスの問い「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
      • 16 シモン・ペトロの答え 「あなたはメシア、生ける神の子です」
    3. 17~19 イエスの言葉 ペトロの受けた恵みの賞賛とペトロへの二つの約束
      • 17 ペトロを幸せ者と宣言し、その理由を、彼に16節の宣言内容を啓示したのは天の父だからと明かされる。
      • 18 約束1 わたしもあなたに言う。あなたはペトロ(岩)だ。
         わたしはこのペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てる。
      • 19 約束2 わたしが天の国の鍵をあなたに与える。あなたが地上でつなぎ、あるいは解くことは、天上でも解かれ、あるいはつながれる。
    4. 20 弟子たちへの禁令

A-a マタイ16.1~4のテキスト

▽イエス、ファリサイ派とサドカイ派の人々の求めるしるしを拒み、そこを立ち去られる

1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。

2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、

3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。

4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

ファリサイ派とサドカイ派は、イエスの時代ユダヤ社会で指導的立場にあった二つの派で、さまざまな点で主張を異にし、互いに張り合っていましたが、イエスに対抗するという点では一致していました。彼らはイエスがこの時点までに行われたあかし証の業や教えに懐疑的で、その宣教が神からのものであることを疑いの余地もないほど明らかにする、天からのしるしを示してほしいと迫ります。すでに読んだ12章31節以下にも彼らがしるしを求める場面がありましたが、あの場合には「試そうとして」とは書かれていませんでした。ここではこの一句が加わることによって、彼らの態度が4章3節で「誘惑するもの」と呼ばれている悪霊の態度に近くなっているのが示されます。彼らは、イエスをとおして神が働いておられることを認めないということで、信仰に欠けているだけでなく、神を試みるようにと、イエスをいざなっているのです。

12章では、しるしを見せてくれと要求する律法学者やファリサイ派の人々に対し、イエスは次のように答えておられました。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(12.38~40参照)。」第25回のレッスンで見たとおり、マタイは、ヨナが三日三晩魚の腹の中にいた後に救われたことを、イエスが十字架上で死刑に処せられた後、三日目に復活されたことの予表と見ていました。ここでもヨナ書を引き合いに出しますが、もはや解説は加えず、ただイエスはこれ以上のしるしは不要と判断して彼らから遠ざかって行かれたと述べています。

イエスはこの時点まで、ガリラヤ地方を巡回しながら神の導かれるままに業と言葉で神の救いが近づいていることを告げ、回心するように励ましてこられましたが、神の定められた時に先立って自分本位にことを運ぶようなことはなさらず、あの悪魔の誘惑の場面(4.1~11)が象徴していたとおり、彼らの誘惑をきっぱりと退けられ、不信の徒を後になさいます。

A-b マタイ16.5~12のテキスト

▽イエス、ファリサイ派とサドカイ派の人々の生き様を否定される

5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。

6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。

7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。

8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。

9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。

10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。

11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」

12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

この段落は複雑で分かりにくく感じられるかもしれません。弟子たちは師とともに舟で向こう岸に行きましたが、パンを持参するのを忘れました。イエスは何の前置きもなく弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と戒められました。

不意をつかれて弟子たちは、主が何をパン種にたとえておられるのかを理解しかね、ちょうど出発にさいしてパンを携えるのを忘れたことに気づいた矢先でしたので、パンを用意してこなかったことでうろたえました。するとイエスはすでに二度もパンの奇跡を体験している(14.13~21、15.32~39参照)にもかかわらず、まだ信仰が浅く、神の恵みを想起して必要な恵みは必ず与えられるという信頼を深めることを知らない弟子たちを戒められました。イエスに招かれて主に従って来た弟子たちは、神がイエスをとおして働いておられることを2回のパンの奇跡によっても体験させていただき、その証拠を目撃する恵みをいただいたのです。だから、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々のように、またかつてイエスの宣教の始めに悪霊どもがしたように、イエスを信じようとせず、飽くことなくしるしを要求するのはふさわしくありません。神がイエスを介して行われた恵みの業の体験を繰り返し思い起こすことによって、神が善いおかたであることを心に深く刻み、思いわずらうことなく主の手に己をゆだねることを学ばなければならないのです。9~10節のイエスのお言葉は、そのことを意味するものと思われます。

さてイエスは、再び先の「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」を繰り返されました。そのときようやく弟子たちは、イエスが何をパン種にたとえておられるのかを理解したのです。パン種(イースト菌)は練り粉のなかに寝かされると、だれもそれと気づかぬうちに練り粉全体に影響を与えてふくらませますが、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々の生き様の影響も同じです。気をつけないと彼らの大多数のように、口で神の言葉を教えたり唱えたりしながらも、イエスをとおして働きかつ語り続ける神にかたくなに背を向け、みだりにしるしばかりを求めるようになるおそれがあります。

次回は、16章1節~20節の後半を見ていきましょう。

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