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米沢の殉教者たち

米沢の取材にあたって、カトリック米沢教会の主任神父をはじめ「米沢の殉教者たち」の研究をしておられる信徒の方々のご案内によって、わたしどもだけではとても行くことのできない、糠山や新藤が丘、花沢などの殉教地を訪れることができました。お忙しい中、ご協力いただいた方たちに感謝いたします。

米沢は、東北地方の南部、山形県の南東部に位置した最上川流域の盆地で、四方を山に囲まれた歴史の豊かな町です。

 鎌倉時代は長井氏、室町時代初期から伊達氏の領地でした。戦国時代には、伊達氏の本拠地となり、伊達政宗の生誕の地としても知られています。江戸時代に入り、関ヶ原の戦いで西軍側について破れた上杉氏の城下町となり、明治の廃藩置県まで栄えました。

 上杉氏は、会津藩120万石から、出羽米沢30万石(実高51万石)に減移封されたことになります。

カトリック米沢教会
カトリック米沢教会

この米沢に、1611年フランシスコ会のソテロ神父が立ち寄ったころ、小さな信徒のグループができました。信徒が増えたのは1626年以降のことでした。一時的にアウグスチノ会のヘスス神父が寄留しましたが、わずかの期間であり、米沢の教会は、信徒たちの手によって管理され運営されていました。この教会に、会津若松にいたイエズス会のポーロ神父や修道士が定期的に巡回し、霊的な指導などをおこなっていました。

 甘糟右衛門信綱(あまかす うえもんのぶつな)は米沢の時代、おそらく江戸でソテロ神父から洗礼を受け、神父の名をもらい霊名をルイスとしました。信綱の父、備後守景継は、上杉譜代の重臣でした。

 ルイス甘糟右衛門とその2人の息子ミゲル甘糟太右衛門とヴィセンテ黒金市兵衛が、米沢の教会の中心となっていました。

パウロ神父の報告書のコピー
カトリック米沢教会にあるパウロ神父の報告書のコピー

1620年、ポーロ神父によって、教皇パウロ5世の手紙が奥州の信徒にとどけられました。翌年、信徒たちは、感謝の感謝の手紙を教皇に送り、その手紙は今もバチカンに保存されています。

 1622年には、ミゲル太右衛門の模範に動かされ、西堀式部政貞が洗礼を受けました。霊名はパウロでした。彼も上杉家の身分の高い武将でした。

 米沢の教会は、司祭のいない巡回教会で、信徒は、「聖母の組」と「御聖体の組」によって組織され、右衛門はその2つの組を統括する「総親」で、彼の息子たちや、パウロ西堀、マンショ吉野らは組の「親」でした。「親」たちは、信徒が住んでいるいくつか村を受けもち世話をしました。

 上杉景勝の時代、米沢ではキリシタンに対する迫害はそれほどではありませんでした。しかし、幕府のキリシタン弾圧が強くなってきた1628年の夏、上杉定勝によって、キリシタンたちへの迫害が厳しくなりました。そのきっかけとなったのは、主な信徒とその行動について報告した家老廣居出雲守忠佳の訴えでした。

 キリシタン断罪は藩のため致し方ないとする廣居と、右衛門の長年の友であり、なんとか彼を救おうとしていた家老志田修理守義秀との間に確執が生じていました。修理は、キリシタンを処罰することは、3千人以上家来を殺さなければならないとし、十戒の説明を渡して右衛門を擁護しました。
 同時に修理は、右衛門には棄教をすすめました。

 しかし、その修理の働きもむなしく、右衛門をはじめとする多くの信徒が死刑の宣告を受けました。処刑される信徒たちは、城下町に住んでいた人たちと、糠山というところに住んでいた人たち、新藤ヶ台と花沢の人たちの3つに分かれていました。

 米沢の信徒たちは、北山原、糠山、新藤ヶ台、花沢の4か所に住んでいましたが、だれも牢に入れられることなく、役人たちが殉教者たちの家から殉教者たちを率いて、殉教地に向かいました。
 また、米沢ではキリシタンたちに対する偏見がありませんでした。

 1629(寛永5)年1月12日、雪に覆われた米沢の北山原、糠山、花沢の3か所で、53人のキリシタンたちが、その信仰のために自らのいのちをささげました。

 糠山の信徒は、徒歩小姓の4つの家族で13人でしたが、6人の男性たちは北山原で殉教しました。糠山は北山原まで遠かったので、女性や子ども7人は武家(飯田邸)屋敷の庭で殉教しています。

 新藤ヶ台における殉教者も徒歩小姓で、2つの家族8人でした。新藤ヶ台は、米沢から半里ほどしか離れていなかったため、みな北山原で処刑されました。

 花沢の殉教者は、1家族3人だけでした。3人は、花沢で処刑されましたが、現在その場所を確定することはできません。

 米沢の殉教者のほとんどが武士でしたが、その中には彼らに仕えていた人たちや、農民も含まれていました。その年齢は、1歳の幼児から老夫婦まででした。



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