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横浜・山手を歩く

2015.11.02

10月31日(土)、横浜市の山手本通りを歩きました。この通り沿いには、カトリックやキリスト教関係の建物が並んでいるからです。ここは、横浜港が開港したとき、港の近くの丘が外国人居留地としてあてられました。港の見える丘公園からはじまる丘は、フランス山、アメリカ山、イタリア山と呼ばれています。丘の尾根を走っているのが「山手本通り」です。副都心線に乗り、元町・中華街駅で下車し、2番出口から外に出て、港の見える丘公園まで坂道を上り、そこから山手本通りを歩いて、カトリック山手教会からイタリア山庭園に入り、丘を下りて中華街を抜けて元町・中華街駅までを巡りました。

なぜ2番出口から出たのか? 2番出口のすぐ脇に「横浜天主堂跡」の碑が建っているからです。時はまだ禁教令出ている中でしたが、1860年、ジラール神父が横浜居留地80番地に聖堂建設所有地の借地権を得て、1862年にこの地に、横浜開港後の日本で初めてキリスト教会が建てられました。当時は、居留地に住む外国人への宣教活動に力を入れていました。教会はその後1906年に、山手に移りました。1862年から100年後の1962年、天主堂跡に記念碑が建てられました。碑のレリーフに、当時の教会を見ることができます。

天主堂跡 天主堂跡
2番出口のすぐ脇にある横浜天主堂跡の記念碑 碑の上には聖心のイエス像が

天主堂跡 天主堂跡
たくましいイエス 交差点の名称にもなっている「横浜天主堂跡」


港の見える丘公園につながるフランス橋の元に、ヘボン邸跡の碑があります。ヘボン博士は、その名が残る「ヘボン式ローマ字」で有名ですが、医師として医療伝道にたずさわり、日本で最初の和英辞典を編纂し、聖書の翻訳も出版しました。また、フェリス女学院、明治学院創設にも尽力しました。

フランス橋を渡り、坂道を上って港の見える丘公園へ。横浜市イギリス館の前にはバラ園が広がっています。ピンク、黄色、深紅、薄紫と、色とりどりのバラが、訪れる人々をいやしていました。

バラ園 バラ園

バラ園 バラ園


山手といえば外国人墓地です。立派な門構えの墓地は、幕末の黒船艦隊来港のときの軍人の埋葬からはじまりました。生麦事件や関東大震災の犠牲者、鉄道や医療、ホテル、教育などに貢献した人々、40数か国約4,800人が葬られています。横浜雙葉学園の教育にたずさわったシスターたちのお墓の手前には、大きなマリア像が建っていました。りりしいお顔のマリアさまで、墓地に眠る人々のために祈っているようでした。外国人墓地の続きには、カトリック山手教会の納骨堂と墓地がありました。

外国人墓地 外国人墓地
外国人墓地の門 墓地内

外国人墓地のマリア像 外国人墓地のマリア像
墓地の中のマリア像 マリア像

カトリック山手教会納骨堂 カトリック山手教会墓地
カトリック山手教会墓地 納骨堂 カトリック山手教会墓地


外国人墓地の斜め向かいには、横浜山手聖公会があります。1901年にこの地に移転しましたが、1923年の関東大震災で建物は崩れ、1931年にこの教会堂が建てられました。大谷石を使った古風な聖堂で歴史を感じます。1990年に横浜市認定歴史的建造物に指定されました。聖堂は開放されていて、ステンドグラスのきれいな聖堂内には聖櫃がないものの、カトリックと同じ空気を感じました。信徒の方々が、訪問者にお茶のサービスをしていました。聖堂の外にある十字架には、アシジのフランシスコの「平和のために祈り」が記されていました。

聖公会 聖公会
横浜山手聖公会 建物の脇にある十字架


道の両側には、すてきな洋館が続いています。また、横浜雙葉学園、フェリス女学院があります。さらに道を進むと、青い屋根の先頭が美しい、カトリック山手教会が見えてきます。結婚式直前で聖堂内はきれいに準備ができていましたが、少しだけならということで聖堂内に入れていただきました。やはり1923年の関東大震災で倒壊しましたが、1933年に再建されました。マリア像の両脇にベルナデッタと母イザベラと息子イグナシオ殉教者、ヨセフとイエス像の両脇には聖アロイジオと聖パウロ・三木を飾る脇祭壇がとてもきれいです。カトリック山手教会は横浜教区の司教座聖堂でもあります。

横浜双葉学園 フェリス女学院
横浜雙葉学園学園の門 フェリス女学院

カトリック山手教会 カトリック山手教会
カトリック山手教会の歴史を感じる門 カトリック山手教会 聖堂

最後に、幾何学模様が美しい山手イタリア山庭園をもつ外交官の家と、ブラフ18番館を見て、丘を下りました。

江戸時代から明治へと大きく社会が変わっていった日本の中で、外国人たちが多く来日し、日本の欧米化のために力を尽くしました。家族ぐるみでやってきた彼らは、日本の変化と発展にどのような思いでかかわり過ごしていたのか、興味深いところです。また訪れて、当時に思いを馳せてみたいと思います。


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