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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖パウロ修道会の創立

ティト・アルマーニ神父の証言

小教区の家

●1914年8月20日、創立の日にアルベリオーネ神父とともにいた二人の少年のうちの一人であった、トルクァート・ティト・アルマーニ神父へのインタビューです。

●インタビュアーのロアッタ神父は、聖パウロ会司祭で、イタリアの聖パウロ会霊性センターの所長でした。創立者アルベリオーネ神父の残した霊的遺産を、研究し、深め、それを教会とパウロ家族のメンバーに分かち合い、1974年日本にも来日しました。

ロアッタ神父:
 ティト神父様は、1914年の前から他のだれよりも長くアルベリオーネ神父とご一緒でしたが、神父様にとってアルベリオーネ神父はどういう方でしたか?

ティト神父:
 私にとってアルベリオーネ神父はすべてでした。生みの親よりもよく世話してくれた父親であり、母親でした。… …
私は大変若いときにアルベリオーネ神父に出会い、彼の指導のもとにずっといました。私にとって彼の声は、神様のようなものでした。

ロアッタ神父:
 その冒険はどのようにして起きたのですか?

ティト神父:
 1910年、私が11歳のときに起こりました。
私は、アルバに近いベネヴェッロ村に住んでいました。当時、神学校の霊的指導司祭であったアルベリオーネ神父は、日曜日ごとに、私たちの教区の主任司祭を助けるためにベネヴェッロまで来てくださっていました。

ベネベッロ

彼が話すとき、私はすっかり彼のことばに引きつけられたものでした。彼は単純で、印象的で、魅力的でした。
村中の者はみな、ミサがあればミサにかけつけ、午後の「晩の祈り」があればそれにかけつけ、聖堂は人でいっぱいになっていました。
彼は主任司祭と、対話の形でカテケージスをしてくれました。主任司祭が生徒で、彼が先生の役をするのです。それはとてもおもしろくて、みな、集中して聞いていました。
あるとき、私は彼のミサに仕えていましたがそのとき、「君も神父にならないかね?」と問われました。
とっさに、私は何と答えてよいかわかりませんでした。
すると彼は、考えておくように、そして「めでたし(聖母マリアへの祈り)」を毎日一回 しばらくたってから私は彼に返事をしました。「はい、とても喜んで司祭になりたい。でも私の両親は大変貧乏なんです。私に勉強など、きっとさせることはできないと思います。」
すると彼は、「それなら心配しなくともよい。私が世話をしてあげよう。」と言ってくださいました。そのとき以来、私はずっと彼に従う者となりました。
それからしばらくたったころ、わたしがモントルッキの牧場にいたとき、彼はそこに私を訪ねて来てくれました。
今でも、その時の会話を覚えています。
「私の名前を知っているかね?」
「いいえ」
「ほらごらん、あの井戸端の大きな木(ポプラでした)、一本の大木(アルベローネ)だね。私の名前は、まあだいたいあれと同じだよ。アルベリオーネ。」

ロアッタ神父:
 1914年8月20日の様子は、どんなふうでしたか? もちろん、パウロ家発足のミサには参加なさいましたでしょう?

ティト神父:
 1914年の夏、トリノから戻っていた私に、アルベリオーネ神父は手紙をくださいました。そこには「アルバで私といっしょに休暇を過ごしませんか。」と書いてありました。何の異存もありません。定められた日に私は神学校に彼を訪ねて行きました。すると応接間に一人の少年が現れ、私を出迎えてくれました。私よりもやや年少のデジデリオ・コスタ君でした。
「トルクァート君ですね。」と私に言いました。そのとき私はアルベリオーネ神父とともに休暇をするのは、私と、他にもう一人いるのだとわかりました。

1914年8月20日、ケラスコ広場に面した小さな借家で、「会」の開設式が行なわれました。

公式写真から
公式写真から

 参列者は、創立者の他にカノニコ・キエザ神父、彼の助手ボルニャ神父、カステリナルドの主任司祭シボナ神父、以上の人たちは彼の親友で恩人でした。その他にローザ神父、マロッコ氏、シボナ氏、この人たちはアルベリオーネ神父から援助を求められて招かれた人たちでした。またローザ神父の母親もいました。
彼女は最初のコックさんでした。それに私たち二人、コスタ君とアルマーニです。
そこで短いあいさつがあり、乾杯も欠くことはありませんでした。私たち二人にも、ぶどう酒のコップがまわってきました。

その日の夜、アルベリオーネ神父は、私たち2人を、近所にあったアラリア神父の私聖堂に祈りに連れていってくれました。ちょうどその日の朝、お亡くなりになった教皇ピオ10世のため、そして聖体のイエスに、誕生したばかりの修道会に必要な恵みを求めるために祈りました。

その翌日、私たちの最初の印刷技師であったマロッコ氏から、印刷技術の手ほどきを受けるため、住居のかたわらにあった小さな印刷所に入るよう招かれました。そこには、簡単な活字組版、印刷、製本がやっとできるくらいの設備があるだけでした。単純さと清貧の中で、神の御助け、マロッコ氏とシボナ氏、もう一人の援助者によって、私たちの出版使徒職の若芽は萌え出たのです。

この、風変わりな夏休みが終わるとき、私はアルベリオーネ神父に尋ねました。「勉強を続けるためにトリノに戻るのですか。」と。
すると彼は、「もしよかったら私が教えてあげよう。」とお答えになりました。 私にはとてもうれしいことでした。さっそくこのことを父に知らせ、もしできたらトリノの学校に置いてきたわずかばかりの身の回り品を、取りに行ってくれるよう頼みました。
そのときから、アルベリオーネ神父との生活が、決定的にはじまったのです。

ロアッタ神父:
パウロ家族の最初のころのことで、他に何か興味深い思い出はありませんか?

ティト神父:
最初のころ、ローザ神父の態度と同調していくのに困難がありました。彼は別の目標に向かっていたのです。
今でもはっきり覚えていますが、アルベリオーネ神父と私たちだけの水入らずのときがありました。そんなとき、彼は何か偉大なものを見つめているな、見方もちがっている、私たちは彼にとって、確かに何かだということを感じたものです。彼の霊的講話は、私たちの心を燃やし、大きな希望を与えていました。彼は広く開かれた確固とした考えを持ち、本会は大いに成長発展するであろうと述べておられました。
あるとき、私は彼に尋ねたことがありました。「シニョールテオロゴ(神学の先生)、私たちもそのようなことを見るでしょうか? 」すると彼は確信をもってお答えになりました。「そうとも! 必ず見るだろう。」この、彼のビジョンは、私たちの支えでした。
あるとき、彼は私たちに、「大きなお恵みが必要だから祈りなさい。」と言われました。  コスタ君も私も、それが何事についてなのか知っていました。私たちの道を進むためには、ローザ神父と分かれる必要があったのです。

ベネベッロ

●1916年の聖土曜日、一つの通告がありました。それは当時モンカレット(アルバの中心から約3キロ)の家から、市内のある場所に移転するため、いつでも引っ越しできるよう準備しておくようにということでした。
ついにご復活の月曜日、朝早く引っ越しです。朝も明けないうちに、静かに音をしのばせながら、借りてきた荷車にわずかばかりの家財道具を積み、新住所マッツィーニ通りに移りました。そこではじめて、アルベリオーネ神父と私たちだけになったのです。
私たちは、何か新しいことに向かって進んでいるのだということを、痛感しました。それから次第に、私たちの未来に関する先生(シニョールテオロゴ)の話の回数がふえ、明らかになっていきました。……

ロアッタ神父:
 1910年から1971年(アルベリオーネ神父の亡くなった年)までの間に、アルベリオーネ神父の近くにおられて焼きつけられた、最も強い印象のいくつかを、要約していただけませんか?

ティト神父:
若者の養成については、大いに強調したいところです。つまり、召命に対するアルベリオーネ神父の力の入れ方、青少年養成のずば抜けた効果がありました。
1914年のクリスマスまでには、もう私たちは6人になっていました。1915年のうちに12人になり、その後つねに増えていきました。そこで、少し広い家に移ることが必要でした。
とにかく、私が軍隊から戻ってきたとき(そのころは非常に困難の多いときで、若者の入会はほとんどなかったのでした)、神学校から来た神学生の一団の他に、20人くらいの若者がいたのを覚えています。
さらに彼は、すべての人に対してその人格に、大いなる信頼をつねに持っておられたということを申し添えましょう。
また、次の二つのことについても、私はいつも強い印象を受けていました。それは、彼の信仰と苦しみです。
新しい企画に取りかかるとき、あるいは、経済的な可能性に対して明らかに不釣合いな建築を着手するとき、彼の信仰は、私たちの目にも非常にはっきりと見えていました。彼の信仰は、実に幻想的で英雄的なところがありました。ばく大な出費と取り組んでも、そのばく大な借金はいつでも無事返済されていました。
私たちに祈らせ、み摂理に信頼して、万事に人的な努力を尽くしておられました。通常の道以外の不思議な方法ですべては解決されるということをご存知でした。その他のこと、使徒的召命、創立、世界進出についても、強い信仰の土台の上に立ってのみ理解することができます。
苦しみ。全生涯にわたって忍ばれた彼の苦しみは、神が彼にお求めになった代価ではなかったかと思います。……苦しみは、彼の生涯の伴侶だったのです。


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