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新世紀ルーツへの巡礼

目次

ローマへ

1) アルバからローマへ

城外の聖パウロ大聖堂
  城外の聖パウロ大聖堂

●アルベリオーネ神父が、「人民同盟の大会の教区代表としてローマに行き、聖パウロの墓前でしばしば祈ることができたとき」以来、ローマに移り住みたいという望みが、彼の心に根づいたと言われています。

●彼は、用事でローマに来た時には、城壁外の聖パウロ大聖堂を訪れ、よく祈ったものでした。そして、使徒パウロのように、パウロ家族は、全世界に向けて開かれているのだと感じるのでした。

アルベリオーネ神父は、聖師イエス・キリストは、聖師の代理である教皇のおられるローマで、聖パウロ家族が彼の「声」、「印刷された福音」をとおして彼の傍らに存在するのは、きっと喜ばれるにちがいない、と感じていました。

彼は、もし聖パウロ会がローマにあるなら、全世界に精神が広げられる、教皇のそばで、カトリックの普遍的な、世界規模の精神をじかに体験できる、全世界に向けての「よい出版物による福音宣教」の拠点になる、父であり、保護者である使徒聖パウロもローマへ行きたいという望みをいだいていた、との熱い思いがありました。修道会創立40周年のときに書かれた「霊的私記」には、「ローマ精神」、「普遍心」というタイトルで彼は数ページさいています。

1925年の聖年時、ローマへ巡礼旅行をしたアルベリオーネ神父は、ローマに 聖パウロ男女修道会の支部を開く決意をしました。彼のこの計画は、敏速に実行に移されました。

このため、適当な家を見つける仕事は、コスタ神父に委ねられました。
 彼は、ローマの城壁外にある聖パウロ大聖堂から 約1キロ離れたオスティエンセ通り75番地に聖パウロ会のために、聖パウロ女子修道会のためにはそこから500メートル離れた、ポルト・フルヴィアーレ通りに借家をみつけました。

借家といってももともと倉庫として建てられていたものでしたが、新しい出発のためにはそれで充分でした。彼らは、神が「いつも馬ぶねから事をはじめさせる」ことを知っていました。他の時と同様に、ローマでの旅も「ベトレヘムからの出発」なのですから。

1925年の終わりころには、アルバの修道院においてこの新しいことについてのうわさが広まり、会員たちの情熱をかりたてていました。創立者がかつて「ローマに行く。教皇のすぐ近くに行く」と語っていたことは、ここに実現しはじめます。

若いパオリーニ(聖パウロ会会員のこと)にとって、ローマへの派遣は、とても魅力あることでした。新修道院の院長には、ジャッカルド神父が任命されました。彼は、パオリーニたちから、「創立者アルベリオーネ神父の考えの一番純粋な解釈者」とみなされていました。ジャッカルド神父は、この任命を他のいつでもそうであったように、素直に、温順に受け取りました。ローマ支部設立の大任を彼に引き受けさせたのは、ひとえにアルベリオーネ神父が神から立てられた人であるという信仰と、従順によるものでした。

ジャッカルド神父は、1月6日、アルベリオーネ神父から彼に託された新しい使命について知った時に、彼の手帳にこう書き記しています。

主よ、
私は単純さとへりくだった心で、
あなたのみ心をはたすために、ここにおります。
主よ、
あなたが私のいのちを司ってください。
あなたは永遠の愛のうちにおられる方です。
私はあなたを信頼します。

この時、ジャッカルド神父は、30歳でした。

ジャッカルド神父と少年たち
中央ジャッカルド神父と少年たち

●ローマ修道院は、アルバの母院の一部のような形で誕生しました。ジャッカルド神父と、中学2年の少年たち14人の人材がアルバから出されたばかりでなく、印刷機、活字、毎月印刷する小教区新聞、食堂のテーブル、勉強机、教科書までも、アルバから運ばれました。

●1926年1月14日、アルベリオーネ神父は、少年14人とティモテオ・ジャッカルド神父を、アルバからローマに出発させました。

出発の前日、13日の午後、アルベリオーネ神父は、聖パウロ会メンバー一同を聖堂に集め、教皇やローマ市、使徒聖パウロの墓地について話しました。さらにパウロ家族は、教皇庁のそばで、直接に教理の源泉に触れ、聖座に奉仕すべきことについて語ったのでした。

ついで、「ジャッカルド神父様と神学生1名、少年14名がローマに新しい修道院を設立するために出発します。彼らのために祈りましょう」と言って、祈りをすすめました。

その中で、アルベリオーネ神父は、ジャッカルド神父が選ばれたのは、彼がローマ教皇を非常に愛していたからであると説明しました。

アルベリオーネ神父は、ジャッカルド神父に、こう言いました。「あなたは教皇を愛し、彼に忠実を尽くしているので、あなたをローマに派遣します。」

ジャッカルド神父は、日記の中にこう書き記しています。

私の使命は、修道院の中で新しい事を起こすことではなく、ローマ教会の上に、聖ペトロの巌(いわお)の上に、使徒聖パウロの使徒業の上に築き上げ、聖パウロ会を育成し、植え、親しませることです。
 私の大きな欠点の中でさえ、人間の手段をお使いになって、ご自分の使命を果たされるために注がれる、神の助けと、神の忍耐を見ました。

ジャッカルド神父にとり、この出発は、父でありすべてであるアルベリオーネ神父との別れを意味するものでした。しかも、重責を担っての出発でした。

14日、聖体降福式の後に聖堂を出ると、彼らは、別れゆく仲間たちと互いにあいさつをかわしていました。修道院のはずれ、パウロ通りまで来ると、アルベリオーネ神父は急に立ちどまり大声でこう言いました。
 「シニョル・マエストロ(ジャッカルド神父)が祝福をくださるから、みなひざまずきましょう」
 そして、まず自分が、凍りついて小雪のうすく積もる路上にひざまずいたのです。

このアルベリオーネ神父の招きに驚き、「いいえ、神父様が祝福をください」とジャッカルド神父が言ったのですが、それは無駄なことでした。

深い感動のうちに、弟子をしっかりと抱擁し、同伴する少年たちに軽いあいさつを送ると、アルベリオーネ神父は自分の事務室に引っ込んでしまったのです。

出発するグループが角の向こうに見えなくなるまで、大声をあげて手をふっていた少年たちも、1月の早朝、遠慮会釈もなくシャツの中に入るこんでくる凍りつくような風に追い立てられるように、家に入っていきました。

城外の聖パウロ大聖堂内部
  城外の聖パウロ大聖堂内部

●翌朝、ローマに着いた一行は、直ちに四大バジリカの一つである聖パウロ大聖堂に行き、ジャッカルド神父の司式によるミサにあずかりました。そして、彼らは、聖パウロ大聖堂の中央にある使徒聖パウロの墓に詣(もう)で、愛する父聖パウロと初対面をし、彼が遺された遺産であるキリスト、福音、人々の魂を、彼に託したのでした。

●その後、この小さな一団は、オスティエンセ通り75番地に住まいを置きました。しばらくすると、アルバから印刷機も届きました。彼らは、ここに3年以上滞在することになります。

何日もたたないうちに、聖パウロ女子修道会の第一団が追って到着しました。この歩みについては、後に触れたいと思います。

オスティエンセ通りでの生活は実に苦しいものでしたが、ジャッカルド神父の指導のもとに、彼らは新しい場での生活をはじめることになりました。彼にとって一番不足と感じていたのは、彼らの住まいにご聖体がないことでした。
しかしそれは、すぐに備えられました。彼らの生活のすべてを、アルベリオーネ神父は、遠くアルバから同伴していたのです。

アルベリオーネ神父は、彼らに次のように書き送っています。
「あなた方にとって、頼れるものは神だけだという状態にあるのを知って、私は喜んでいます」と。

彼らは住居のすぐ近くの大きなバラックで、イタリア中南部の教区報、および「Voce di Roma(ローマの声)」という週刊新聞を印刷しました。その週刊新聞の内容は、アルベリオーネ神父の考えに従って、おもに教皇の言葉や、聖座の行事などでした。

彼らの根拠地は、何回か変わりました。はじめは借家で、1928年から1929年にかけ、グロッタペルフェッタ通りに住んでいましたが、その後、1928年に建築をはじめた新居に移りました。

◆2--10 ローマへ


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