home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 > 2-聖パウロ修道会 > 3) 日本での歩み

新世紀ルーツへの巡礼

目次

東洋へ

3) 日本での歩み


東京大空襲で消失した若葉修道院跡

中央出版社跡
中央出版社跡

やっと日本ではじめられた聖パウロ会の出版による宣教ですが、やがて第2次世界大戦を迎えることになります。戦時色はますます濃厚となり、生活物資のコントロールも強くなり、この中で修道会の使徒活動確立のためには、強力な資金援助が必要であると考え、1940年にはベルテロ神父がアメリカに派遣されましたが、1941年12月には太平洋戦争が勃発し、彼は日本が敗戦を迎える時まで日本の地を踏むことはできなくなりました。

日本に残ったパウロ会会員の努力により、信徒も増加していったものの、戦時下にあっては、彼らが教会に来ることもちろん、教会活動をするにはとても難しいものがありました。

印刷所

1941年にはカトリック系出版社は、政府の各種企業の整備により、廃業か統合かの瀬戸際に立たされることになります。関係者の話し合いの結果、1943年、東京においてカトリック系出版社は統合されることになり、名称は「中央出版社」となりました。聖パウロ会はその印刷所を担当、パガニーニ神父がその監督にあたることになったのです。

日独伊同盟により、好意的であったイタリア人修道士、司祭も、1943年にムッソリーニ失脚後、彼らは軟禁され、イタリアが同盟から脱退した後は、彼らはいっそう厳しい監視のもとにおかれることになりました。

軍事関係の施設の多い王子区内にとどまることは、この時の情勢上好ましくないと判断し、彼らは都心に住居を求め、四谷区(今の新宿区)内の一人の信徒の家を借り受けることになります。

1944年、マルチェリーノ神父以外の神父たちは、四谷に移転しました。王子に残ったとはいえ、マルチェリーノ神父は教会の司牧活動にあたることには困難でした。

この年、マルチェリーノ神父とパガニーニ神父はスパイ容疑で逮捕されましたが、彼らはこの苦難を初代教会の使徒たちのように「主のみ名」のために忍び、この苦しみを日本のために奉献したのです。

1945年、東京大空襲により、聖パウロ会の家と出版社の印刷工場は灰と化してしまったのです。

住居を失った会員は、イエズス会のご好意により、上智大学の大島館に一時的にお世話になりますが、長い間滞在するわけにもいかず、四方に離散することになります。

ナザレトの家
      ナザレトの家

●8月15日の敗戦とともに、フロジャク神父の好意により「ナザレトの家」を提供していただき、神父たちは3カ月ぶりに兄弟ともに住む喜びにあずかることになります。

●9月1日には、彼らは出版使徒職を開始し、マルチェリーノ神父は「出版布教」というリーフレットを作成し、それを各教会に送り、出版使徒職による宣教の重要性を説き、これに対する理解と協力を要請しました。

紙不足という状況にもかかわらず、「バラの聖女」、「信心生活入門」などの数点を敗戦直後の数カ月の間に出版した彼らの意欲と情熱は、パウロの息子に値する者と言えるでしょう。

11月には、カトリック教区長会議は、週間「カトリック新聞」の出版を聖パウロ会に委ねました。

こうして、聖パウロ会の固有の使命は日本に芽が出はじめたのです。この間、2人の宣教師が日本の地を踏んでから10年の歳月が経っていました。

日本での修練も開始され、アメリカに渡っていたベルテロ神父も1946年には帰日し、四谷若葉町の焼け跡には修道院の建築が開始されました。

このころ、マルチェリーノ神父はイタリアで行われる会議に出席するために、イタリアに帰国することになります。この時、彼は悪化していた胃潰瘍の再手術を受けますが、医師は彼の命は保証できないと彼に告げます。その時、マルチェリーノ神父は、「万一の場合、自分の心臓は日本の地に埋めてほしい」と願ったのでした。幸いにも術後の経過は良好で、彼は再度日本の地を踏むことになります。

イタリア滞在中、彼は日本の宣教の必要を聖パウロ女子修道会にも熱く語り、心動かされた会員は少なくありませんでした。

やがて、聖パウロ会に続いて、聖パウロ女子修道会も世界に向けて羽ばたいていきますが、そこには日本への修道女たちもいました。
 このことについては、後日お知らせしたいと思います。楽しみにお待ち下さい。

波瀾万丈の中で、パウロ会の日本の会員も育っていくことになります。この会員の成長こそ、マルチェリーノ神父たちが抱いていた「日本人による日本人の救い」という願いの一歩となっていきます。

日本と中国への派遣の翌年、1935年7月にはフィリピン諸島にパウロ会員マテオ・ボルゴーニョ、ガエタノ・グロッシの両神父は、到着したのです。

同年に、インドに向けてミケ-レ・アンブロジオ神父と後に日本へと派遣されたグイド・パガニーニ神父が派遣され、1937年にはアルフォンソ・フェッレーロ神父とベルナルディーノ・ルッフォリ修道士があとに続いています。

こうして、東洋の地にパウロ会の一粒の種子は蒔かれていきました。

◆2--14 東洋へ


▲ページのトップへ