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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み

2) 戦後の世界旅行

創立者とシスターテクラ

●945年末、アルベリオーネ神父は、イタリアに戻った宣教地の兄弟・姉妹に再会し、これらの地がどうなっているかを確認するための世界旅行という使徒的活動をはじめました。

●1945 年12月28日にアルベリオーネ神父は、3人の司祭たち、それにシスターテクラとシスターパウラ(USA)と他に3人のパウロの娘たちを伴い、アンドレア・グリッティ号でナポリから出航し、1946年5月22日に帰国するまで、アメリカ合衆国の諸修道院を訪問し、ひき続きアルゼンチンとブラジルを訪問しました。

●シスターテクラは、この時のことを“プリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父)のはじめての国外旅行”と題して1961年に語っており、それは『私たちの起源』という小冊子の中に残されています。

これは、シスターテクラと何年も会うことができなかったアメリカにいるパウロの娘たちとの再会です。彼女たちは戦火に見舞われなかったので、道が開けるとすぐに、本部に金銭をはじめ、衣類、食料、布地など驚くほどの寛大な援助をしました。しかし、遅滞や紛失があり、この援助はたやすいものではありませんでした。

シスターテクラは、アルゼンチンのシスターブリジダに次のような手紙を書き送っています。

援助のことは心配しないでください。シスターパウラが、助けてくださいました。衣類がとても不足していましたが、いまはみなにゆきわたりました。
発送するのは適当でないようです。サンパウロから荷物を送ってきましたが、ナポリに止まったままで、いつ手に入るかわかりません。だれか旅行者に依頼して送るのでなければ、荷物だけの発送はしないほうがいいでしょう。
その間もイタリアのために寄付を集めておいてください。たくさん助けなければならない人がいますから。私たちの愛する祖国は本当にみじめな状態です。

第二次大戦が終わった時、アルベリオーネ神父は61歳になっていました。彼はどんなに苦しい情況の中でも、託された使命への道を切り開いて行く力に満ち溢れていました。

アメリカ合衆国において、アルベリオーネ神父は、年の黙想を指導し、修練院を訪問しました。司祭をはじめ誓願者たちは全員アルベリオーネ神父との出会いを望んでいました。彼と出会った会員は、彼の言葉から励ましと力を得、喜びにあふれたのです。

アルベリオーネ神父とシスターテクラは、あるときは一緒に、あるときは別々に旅行を続けました。

シスターテクラは、行きの船旅の間にパウロの娘たちに、「1946年は、私たち全員にとって進歩の年でなければなりません。私が戻るときには、みなが前よりもいっそう善良で、いっそう聖なるものになっているように、願っています」と書き送り、この旅行の途中で、こうも書いています。「世界を回れば回るほど、私たちの使徒職の広がりがわかります。これほどまでも時代に合ったこの修道会に呼んでくださったことを、毎日主に感謝し、聖なる誇りをもつ必要があります」と。

アルゼンチン養成の家
  アルゼンチン養成の家

二人は、アメリカ合衆国を後にし、1946年3月7日、アルゼンチンに到着しました。パウロの息子、娘たちは全員でアルベリオーネ神父とシスターテクラを飛行場で出迎えました。

1932年以来こちらに来ているパイオニアたちのなつかしい顔です。その一人はこう言っています。

飛行機の中から、アルベリオーネ神父が手を振ってあいさつしているのが見えました。その時の喜びを言葉でどう表現していいかわかりません。父に出会うのは、10年、15年ぶりです。こんなに遠いところまで訪問してくださって。疲れた顔を想像していました。しかし、……いつもの彼でした。善良さに満ちていて、やさしく、きさくで、エネルギッシュで……。

 彼らと過ごした日々はあっという間に過ぎてしまいました。その間、どれほどのことを私たちの心に残してくれたことでしょう。言葉で、模範で、疲れをしらない働きで、信心深い熱心な祈りで……と、私たちの家に香りが漂いました。

 私たちは飛行場まで見送りにいきましたが、その時、また訪問すると約束してくれました。私たちは彼からの祝福を受け、みな“Buon viaggio!(よい旅行を!)”、早い内に再会しましょう、私たちをいつも祝福してくださいと言ったのです。

 飛行機は飛び立ち、広い宇宙空間の中に消えていきました。

この旅行中、アルベリオーネ神父は手紙、講話などを残し、息子、娘たちを励まし、喜びを与えたのでした。

アルゼンチンのパウロの娘たちは、初期の困難な時期から、新しく購入した土地に建てた建物や新しい印刷所、新しいプランをシスターテクラに見せ、相談することができました。

シスターテクラにとって、なによりもうれしいのは、新しい志願者たちの顔……。彼女たちは神のみ言葉を普及したい一心から入会した人々です。

1940年には修練院もはじまりました。その中の一人は、ローマでの神学コースに参加するため、シスターテクラと一緒にイタリアに出発することになります。

アルゼンチンでは、まだ開設当時の不便さいっぱいの段階であり、ここでの小さな拠点は中心からも遠く、市の中心部に移れるのは、1950年のことです。これらの歩みの中で、パウロの娘は司教の大きな援助を得ました。彼は自分が司教区を訪問するときに、パウロの娘を伴い、その旅程にずっと従ってくるように彼女たちに勧め、パウロの娘たちの活動をなるべく早くみなに知らせる方法を提供してくれたのでした。

シスターテクラは、この旅の経験を、「どの地域に行っても、だれと話しても、私たちパウロの娘たちが主に特別に愛していただいていることを確信するばかりです。まず、修道召命という大きな恵み、そして出版という聖なる使徒職で働く恵み」と書き送っています。主のみ手はパウロの息子、娘たちと共に働いておられたのです。

シスターテクラは、「旅行は疲れるどころか体によかったようです……」と言っていますが、この旅行の後、彼女の健康もやっとすっきりと回復したようです。

アルベリオーネ神父とその一行は、その後ブラジルに行き、短い滞在の後ニューヨークに戻り、そこから帰国の途につきました。途中でパリの共同体を訪問し、4 月25日にローマに着いたのでした。この年、イタリアでははじめてアルベリオーネ神父の祝日(3月19日の聖ヨゼフの祝日)を彼不在で祝ったのでした。

アルベリオーネ神父は、ローマに着くやすぐに困難のあったスペイン、ポルトガルに旅立ったのでした。そこで会員たちを励まし、必要な物的、精神的援助を与えたのです。

この間、シスターテクラは、イタリアの修道院を訪問し、新しく修道会に入会を希望してしている人たちのことを中心に心を配っていました。この時期、アルベリオーネ神父とシスターテクラは、新しい力、新しい会員の必要をたえず呼びかけていました。

戦後復興のこの時期、ことさら人々の必要を強く感じていたのです。修道会入会者を呼ばれるのは主ご自身ですが、私たちは、呼ばれている人を探し、修道会を知らせながら、協力する必要があります。シスターテクラは、「まずこのような修道会があることを知らせなければなりません」と言っています。

シスターテクラの運転手であったシスター・ジュゼッピーナ・バレストラは、当時を思い出しながら次のように言っています。「プリマ・マエストラ(シスターテクラ)は、移動中、あちこちの村落や家々のある果てしなく広い畑の間を通りながら、たびたびこう言っておられました。『あそこにいる人々にまで、パウロの娘のだれかが到達して神のみ言葉を運んでいるでしょうか。祈りましょう!』そして、すぐに、そこの人々のためと、入会者が出るようにと、短い祈りを一緒に唱えていました」と語っています。

彼女の支部訪問は1948年9月に終了します。

◆6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み


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