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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--3 旅、そして旅

10) ベルティーノ神父の証言からみる中国(4)

飛行場で
飛行場で

ロアッタ神父:
 ちょっと前のことですが、アルベリオーネ神父が東洋から書いた手紙を読みました。ちょうど1949年春に書いたものですが。

ベルティーノ神父:
 創立者はついに中国には入れませんでした。しかし、私たちのために、いろいろな形で一生懸命にしてくれました。当時フィリピンにいたステファノ・カーネ神父はアルベリオーネ神父の多くの手紙を保存していますが、そこには彼が、私たちに必要なものをできる限り送るように、とステファノ神父に強く促している手紙があります。ステファノ神父の寛大な努力にも、私たちは深く感謝しています。

ロアッタ神父:
 あなた方の十字架の道行は、どんなものだったのですか。

ベルティーノ神父:
 何とかして続けていこうとしていました。いろいろなものをできるだけ上海に送ることを考えました。引き揚げ希望者はだれでも乗れるアメリカ輸送船があったので、それに載せましたが、人は南京に残り、建設事業を進めていこうと考えました。

 若者たちと一緒に最初に新しい建物に移ったのは、ヴァラルド神父でした。続いて、1949年はじめには全共同体が移りました。1年ぐらいの間は、まだかなりよい働きを続けることができました。ところが、1950年から、私たちの使徒職に関しても、私たち自身の動きに関しても厳しい規制がなされるようになり、若い会員は、神学生も修道士も絶え間なく警察から監視され尋問されるようになりました。

ロアッタ神父:
 大きな苦悩と不安の時期だったでしょう。

ベルティーノ神父:
 ここで話をくり返すのも意味のないことですから、ただ、結末だけ、つまり最後の日のことを話します。
 修道院のなかに長いこと閉じこめられたままで監視されていた後、私たちの修道院のなかに設けられた裁判の場に引き出されました。人民と裁判官の前に頭を下げて出頭せよ、と強制されました。犯した重大な犯罪のために、私たちは会衆の前に尊厳をもって真っ直ぐに立つことはできない、というわけです。私たちの犯罪 (外国政府と教皇への忠誠など) が裁判官から大声で怒鳴りまくられました。それから人民の名をもって、私たちの断罪を求める多くの人の発言が続きました。こういう場面が3時間。私たちが親しく知り合っていた人々は、おずおずと賛成のしるしを見せました。自分自身と私たちとに、これ以上事態が複雑化しないほうがいいと思ってのことでした。

 そして、最後に人民政府の判決文が裁判長から読み上げられ、慈悲により3名の帝国主義者 (カナヴェーロ、ベルティーノ、パナロ) のみが有罪判決ということでした。若者たちはすでに家族のもとに送り返していたし、二人の中国人修道士は逃亡に成功し、イタリアに到着していました。ヴァラルド神父はすでに出発していました。1946年から不在だったテスティ神父は欠席裁判で死刑判決を受け、そのとき一緒に南京の大司教は国外追放になりました。教皇使節モンシニョールリベリは有力な外国人の働きかけがあって無事を得ました。だから中華人民共和国の聖なる大地から、私たち3人の「帝国主義者」を永久追放するという判決だったわけです。

ロアッタ神父:
 苦難の徹夜!

ベルティーノ神父:
 パナロ修道士は、最後に残った石鹸を近所の人にプレゼントしたということで、長いこと強烈な平手打ちを食いました。しかし、最悪のことは、嘘偽りが語られたことと、そこから来る私たちを慕っていた人々の心の苦痛でした。いずれにせよ、判決が読み上げられると、警備兵たちが警察署に私たちを連れていき、そこで私たちは最後の荘厳なお叱りを受けました。

 さらに、香港到着までの鉄道移送中はどのようにしなければならないか、について厳密な命令も受けました。つまり、だれともどんなことがあっても、いかなるコミュニケーションとか合図もしてはならない、という厳重な禁止命令です。警備兵とスパイに監視されて広東に到着し、さらに自由の境界線といわれる有名なラオウー橋まで監視つきでした。

 そこで英国警察とミラノ外国宣教会のポリッティ神父の出迎えを受けました。彼は私たちをねぎらい、世話をしてくださり、九龍(カオルン)向けの列車まで同伴してくえました。1952年被昇天祭前夜、私たちは香港のカトリック・ミッションのセンター・ハウスに到着しました。

ロアッタ神父:
 喜びと苦しみが深く一つになっている体験だろう……と思います。

ベルティーノ神父:
 いっさいを失っていました。あんなに将来性があり親愛の情で結ばれていた若者たちも散ってしまいました。働きと希望と苦しみの18年は、こんなふうに終わりました。確かに、私たち個人としては自由と愛を取り戻したのですが。

ロアッタ神父:
 そして、あなた方は何をなさいましたか。

ベルティーノ神父:
 イタリアに1年。それから従順によって、一緒にまた、東洋への道を取りましたが、行き先はフィリピン諸島で、私たちのささやかな貢献をその地のパウロ家族の諸修道院に提供することでした。あなたもよく知っているように、カナヴェーロ神父、中国に惚れこんでいたあの聖なる人は、今度はそこのために非常に頭をよく使って勇敢に自分をそそぎ尽くして、最近フィリピンで亡くなりました。立派な司祭でした。

ロアッタ神父:
 ベルティーノ神父、いままでのお話を聞いて、悪夢から目覚めたような気持ちです。また感嘆します。希望もないわけではありません。神の種はそこに蒔かれています。多くの立派なキリスト者が、主のまなざしのもとでそこに生きてきました。愛に動かされてなされたことが、空しく消えることはありません。そこには、あなた方の勇気と働きと大きな苦難の記念ばかりでなく、親愛なるボネッリ神父の骨も埋められています。中国にパウロ会士が戻る神のときが来ると信じていらっしゃいますか。中国についてはどんな思いをもっていらっしゃいますか。

ベルティーノ神父:
 宣教師はだれも、あの偉大な民族に対して恨みとか苦い思いをもってはいません。迫害の道具となったときの彼らに対してさえも、です。むしろ、どの宣教師の心にも、彼らに対してのある種の尊敬、好感、いや、また会いたいというなつかしささえあります。自分たちが働き、苦しんだ地の親愛なる友人たちです。どの宣教師の心にも中国に戻りたいという熱い望みがあります。いまだにすべてに禁止令がつきまとう状況、我々の年齢も進んできているし、健康も不安定になってきていることで、考えさせられます。だから、宣教の燃える松明が、教会と修道会の新しい世代に引き継がれていくことを願って、神に祈りながらささげる、ということで満足します。

 神のときは来ます。落ち着きと自由が戻ってきて、強い人々、あの地に福音をもう一度運んでいくことのできる人々が立ち上がるでしょう。

ロアッタ神父:
 宣教師になるという考えは、小さいときから持っていましたか。

ベルティーノ神父:
 思いもかけず中国に出発するまで、アルバでアルベリオーネ神父のそばにあって13年間の養成期間を過ごしたわけですが、彼のしていることをよくわかっていたということではありませんでした。

 しかし、彼が求めることはいつでも何でもしようという心はありました。ただ覚えているのは、当時若かった私たちは、彼という人間、その聖性に強烈な影響を受け、捕らえられ、支えられていました。霊的な父として彼は私たちを包んでいたし、引きつけていました。だから、彼が何を求めようとも、必ずそれをしよう、という私たちでした。今でも驚いているのは、中国に派遣するのに、まったく準備のない私を選んだということです。

ロアッタ神父:
 おそらく、あなた方が中国語で最初に印刷したらよいと考えた、あの「パウロ家族の契約」に彼は賭けたのだと思います。

ベルティーノ神父:
 まったく出発のときの私たちの心はそのとおりでした。「すべてにおいて弱く、無知で、無力で、不足している……」、ただ主のなさることに全面的に信頼するだけでした。私たちに不足していることは全部ご自分がなさいます。

ロアッタ神父:
 活動の果てしない畑と、豊かな実りが待っていることを、神はあなた方にわからせました。それからご自分の過越の神秘に参加するように求められました。つまり、放棄、苦難、死。彼が望むときに望む形で復活がある、としっかり信じることが求められたのです。

ベルティーノ神父:
 それはかたく信じています。

◆6--3 旅、そして旅


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