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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--3 旅、そして旅

3) インドへ

インドで

アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロの旅行は、4月3日にイタリアを出発し途中数カ所に寄港しましたが、最初の到着点はデリーです。ここインドの首都では、とてもうれしい再会がありました。旅行記にはこう残されています。

「デリーでは12年ぶりにアルフォンソ・フェッレーロ神父とベルナルディーノ修道士に再会し、大きな慰めを味わった。6年以上もの抑留生活と病気の後遺症が残っている。彼らはまことにりっぱな本物のパウロ会士である」と。

今まで一緒に旅行してきたアルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロの二人は、この地で分かれます。

アルベリオーネ神父はそこに残り、シスターテクラ・メルロはカルカッタ(コルカタ)とフィリピンに向かいました。彼女はいろいろの地を訪問していくうちに、東洋の人々は彼女の心を強くとらえたのです。

アルベリオーネ神父たちがインドを訪問した時代のインドは、人口4億、識字数は1千5万、カトリック者は400万です。

ここでは、福音宣教の最も優れた組織、現代的で効果的、かつ迅速な手段を、古いものの上に加える必要がある、とアルベリオーネ神父は言っています。

大司教館では温かい歓迎に加えて、祭壇上には「師はここにいます」と書かれてあり、ミサは良き勧めの御母のまなざしのもとにささげられました。

アルベリオーネ神父は、インドを発つ前に第2回目のレポートを会員に送っています。その中からいくつかをご紹介したいと思います。

聖パウロ修道会の修道院は、聖なる喜びがあり、“私たちの生活”を感じさせ、熱心な使徒職がみられる。……地元の召命は不足している。ゴア、ボンベイ(ムンバイ)、インド南部から召命をさがさなければならない。

インド人の魂は非常に信仰心があつく、内省的で、神秘的である。……回心は新しい困難に直面している。そして同じく使徒職もそうだ。伝統や生活としてのインドのメンタリティーは、手段や、新しい方法が求められている。

インドでは私たちの使徒職にとって外的な問題として二つの大きな困難がある。その一つは非識字者である。住民のきわめて多くの部分、数えられるだけでも人口の10分の9が読むことができない。二つ目は群衆の著しい貧困にある。……しかし、私たちの使徒職はとても必要である。4億の人口のうちカトリック信徒は400万だけである。だれもが理解できるようにたくさんの挿し絵をいれて印刷する。映画は何倍にも増やされた言葉である…インドでは映画の使徒職は可能である(たとえ英語を使用したとしても)。要理の本もカラー挿し絵入りでできる。きちんと翻訳された福音書が望まれている。また、豊富な絵入りの聖書も所望されている。聖パウロのエフェソの信徒への手紙の冒頭は驚くほどの現実性があり、私たちはこれを黙想した。

先の二つの困難に続いて使徒職に第3の困難が加わるが、これはむしろ内的なもので、あらゆる宗教は良いものであるという信念である。

しかしながら、これらの著しい困難にもかかわらずインドにおけるカトリックはすでに深い根をおろしている。ガンジーがしているインドの最下層民(彼は「神の子」と呼んでいる」)のための働き、それ自体は、カトリックの司祭たちが最も貧しい人たちのためにしていることの模倣である。

プロテスタントの人々はいろいろな方法によって熱心に働いている。彼らは学校を経営していて大学に通う青年たちのために寄宿舎を持っている。また、都市の最も人通りの多い中心地に教会を持っていて牧師たち、シスターと言われる人たち、男女の教師たちがいる。

開かれた憲法はカトリックの宗教に対してかなりの自由を与えていると思われる。現在のところ、改宗は禁じられていないが、ある地方では熱心な勧誘は禁じられている。しかし、彼らのメンタリティーのゆえに改宗するということは英雄的なことであり、きわめて熱心な働きによってのみ希望がもてる。

インドという国は本当に種々の面で神秘的である。ここでもマリアが先だってくださるはずである。マリアはイエスをもたらしてくださる。私たちの兄弟たちは、使徒の女王マリアの必要を感じており、母、教師であるマリアに感嘆すべき犠牲をささげている。ロザリオの祈りをささげ、マリアの祝日、マリアの月を大切にしている。マリアは私たちにとって、兄弟たちにとってこの国の人々にとって希望である。1億2千万の非キリスト者がいる、というのはたやすいが、幾日間だけでも彼らと共に生きるということは別のことだ。

この国の人々のメンタリティー、感じ方、生活は信仰の偉大な賜物と異邦人の中にいたパウロの宣教活動を私たちに必然的に認めるようにしむける。しかし、同時に私たち司祭やカトリックの信徒たちが人々を深く愛し、彼らのために何物も惜しまなかったイエスの心を持っているか、また「父が私を遣わしたように私も遣わす」とのイエスの言葉を理解しているだろうかということを考えさせる。

司牧的で組織だった働き、現代的手段を利用するにあたっても効果的な働きと考えで人々を得ること。群衆を照らすこと。知識層に向かうこと。福音に近い環境づくりをすること…

東洋を愛する使徒的魂が必要である。彼らは敬虔(けいけん)だが「キリスト不在」で生きている。

確かに宣教師たちにとって、インドにはのりこえなければならない困難が多い。環境、メンタリティー、生活態度などの他に、言語を習わなければならない。文字はイタリア語とあまりに違うし、いろいろな地方の方言があってそれらが混ざって使われている。

インドの人々は内省的で聡明で宗教的である。彼らが福音を受け入れるなら、教会はどんなに富まされるだろう。そして、どれほどの社会的変革がもたらされ、倫理的、文化的進歩もまた、大きいことだろう。

◆6--3 旅、そして旅


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