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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--3 旅、そして旅

8) ベルティーノ神父の証言からみる中国(2)

創立者

ロアッタ神父:
 上海では、すでに出版の試みははじめていたのですか。

ベルティーノ神父:
 はい、しかし、もう少し先になってからでした。そうこうしているうちに、1935年8月にはエマヌエル・ファッシン神父が戻りました。6カ月後に、年長の司祭たちの中からギオーネ神父が替わり、次に1936年2月には叙階されたばかりのクレメンテ・カナヴェーロ神父が到着しました。彼は、最後まで中国での私たちの事業の発展にとって目を見張るような力となりました。

ロアッタ神父:
 そのときになってやっと、パウロ会固有の活動を何か考えはじめることができた、ということですか。

ベルティーノ神父:
 まさにそのとおり。3人になってから、準備の一時期をもち、それから、熱心なフランシスコ会士トゥルコ神父も一緒になり、漢口の郊外に中国家屋を借りて、若者を受け入れはじめました。

ロアッタ神父:
 そのときにはじめたのは、どんな活動ですか。

ベルティーノ神父:
 だんだんと、簡単な印刷機を手に入れていきました。漢字活字とアルファベット活字、ペダル印刷機、そして小さな断裁機。カナヴェーロ神父は、毎日のように、志願者たちをカトリック・ミッションに連れていって印刷技術を教えました。

ロアッタ神父:
 それは、すばらしい時期だったでしょう、困難な時期ではあっても。

ベルティーノ神父:
 何を印刷したと思います? 漢口の小さな印刷所で、最初に印刷したのは……?

ロアッタ神父:
 何でしたか。

ベルティーノ神父:
 中国語の「パウロ家族の契約」です。聖なる誇りをこめて、アルベリオーネ神父に一部送ったものです。彼はとても気に入りました。すぐ返事がきて、「おめでとう」と一緒に今後の私たちの発展のための勧めをくれました。出発点として、主日の福音、教理、祈りの本を印刷し、同時に隔週の小さな雑誌を中国在住のイタリア人向けに出版しました。

ロアッタ神父:
 けっこうな、明るい見通しですね。

ベルティーノ神父:
 そうです。そして、私たちが漢口の印刷所を充実させようと考えていたところに、南京行きの話が来ました。首都です。


ロアッタ神父:
 だれが呼んでいたのですか。

ベルティーノ神父:
 南京に新しく着座した司教、モンシニョール ユ・ピンでした。後の枢機卿です。教皇庁使節もその考えに賛成していました。そこで、私たちは出発の準備をはじめました。人員と印刷所の移動です。パウロの娘たちも私たちと一緒に来なければなりません。

ロアッタ神父:
 パウロの娘たちも、すでにいたのですか。

ベルティーノ神父:
 1937年1月、私たちがいた漢口に到着していました。日中戦争の直前でした。そのおかげて、彼女たちはあっという間に家無しになってしまうのですが。なにしろ南京に向けて、すぐ、私たちと一緒に出発しました。南京に到着したのは、1937年の聖金曜日でした。

ロアッタ神父:
 旅行は普通にできましたか。

ベルティーノ神父:
 印刷関係の資材と機械類のために帆つきの貨物船を雇い、漢口から南京までを揚子江を下り、2週間かかりました。貨物船いっぱいの積み荷での出発はちょっと大変でした。私たちは汽船で旅行し、1937年の聖金曜日には全員で当時の首都の南京に到着しました。印刷所関係のものは、4月末に到着しました。それを組み立てるのは、優秀な志願者3人があたり、こうして印刷がはじまりましたが……。

ロアッタ神父:
 何かあったのですか。

ベルティーノ神父:
 その年の8月、上海からあまり遠くない南京に、日中戦争の爆弾が雨と降りそそぎはじめました。どこを向いても、逃げる話ばかり。3千万という中国人が西の地方に向けて逃げはじめました。

ロアッタ神父:
 そして、あなた方も?

ベルティーノ神父:
 それ以外の選択はありませんでした。わずかなものは、知り合いになっていた中国人のところに預けて、最初に逃れていったのはチェンチャンでした。そこから上海に逃れ、嵐が過ぎ去るのを待つことにしました。チェンチャンに何日か居残ったパウロの娘たちは、道路の閉鎖で、上海には到着できなくなりました。そこで、南京に戻り、そこから揚子江路を取って西に向かいました。神のお導きで、彼女たちは広東に行き、そこから香港に行って、ついにフィリピン諸島にたどり着き、そのままそこに留まったわけです。

ロアッタ神父:
 こうして、パウロの娘たちの短い中国滞在は終わったということですね。

ベルティーノ神父:
 周囲の状況で短くなってしまいました。しかし、現在、彼女たちは国民軍の中国、つまり台湾でひじょうに発展しています。

ロアッタ神父:
 それから、あなた方はどうしたのですか。

ベルティーノ神父:
 若者たちを家に帰して、上海を後にしなければなりませんでした。上海に向かう最後の列車に乗りました。到着してからイエズス会に泊めてもらい、つぎにフランシスコ会の世話になりました。帰国したほうがよい、と言われて、私たちは再びコンテ・ヴェルディ号に乗り、香港まで行きました。ここでギオーネ神父の健康状態は最悪になり、宣教師の一司教からの勧めもあって、彼はそのままイタリアへの旅行を続けました。彼は、ローマの私たちのよき牧者教会で司牧にあたり、1960年に亡くなりました。一方カナヴェーロ神父と私は、フィリピン諸島に到着し、バタンガ、リパの兄弟たちに迎えられました。

ロアッタ神父:
 そこには長いこといたのですか。

ベルティーノ神父:
 7カ月、つまり、1938年3月まででした。中国語と英語を勉強しながら、印刷所の仕事を手伝いました。

ロアッタ神父:
 そこから、また中国に戻ったのですか。

ベルティーノ神父:
 はい。上海に戻ったのが、1938年3月でした。しかし、南京への正式許可を手に入れるまでには何カ月もかかりました。やっと到着したのが、1938年 11月、しかし、私たちを待ち受けていたのは思いがけないことでした。私たちはいっさいを失い、パウロの娘たちの荷物もすべて無くなっていました。荷物はすべて開かれていて、印刷関係のわずかなものだけが残っていました。忍耐強く、小さな仕事を手がけはじめました。

ロアッタ神父:
 いつも二人だけですか。

ベルティーノ神父:
 ずっとカナヴェーロ神父と私だけです。ところが、ちょうどそのころ、テスティ・サムエレ神父とイグナチオ・モスコーニ修道士が来る、といういい知らせがイタリアから届きました。

ロアッタ神父:
 新しい希望だ! それはすごい!

ベルティーノ神父:
 そのとおり! 大きな力です。若者たちも、また、入会しはじめました。

ロアッタ神父:
 そのなかの何人もが誓願まで行きましたよ、ね。

ベルティーノ神父:
 そうです。カナヴェーロ神父のもとで若者たちはぐんぐん養成されていました。とてもうれしかったのは、はじめての着衣式でした。1942年6月30日のことでした。何人もの中国人立誓者が育ちました。

◆6--3 旅、そして旅


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