home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 >  10)創立者たちの最後の奉献 への招き1) 創立者の死

新世紀ルーツへの巡礼

目次

創立者の死

1) 創立者の旅立ち(1)

ザノーニ神父とともに

アルベリオーネ神父は、1969年に行われた聖パウロ修道会総会に参加し、新しい総長ルイジ・ザノーニ神父の選出に臨席しました。新総長はアルベリオーネ神父を支え、副総長の任を果たしていた司祭です。

アルベリオーネ神父は、また、1969年9月に聖パウロ女子修道会の総会委員たちに会い、一人ひとりにロザリオを渡しました。
1971年の秋、彼女たちが第2会期を開いている間、彼は沈黙のうちに最期の日々を過ごしており、総会委員たちは小さなグループに分かれて、彼にあいさつに行きました。聖パウロ女子修道会の総会の終わりの総長選挙の産みの苦しみの最中にアルベリオーネ神父は臨終に入り、11月26日(金)夜、教皇パウロ6世の訪問という大きな慰めを受けた後、彼は天に召されました。

教皇パウロ6世の訪問

教皇の訪問

1971年11月25日からアルベリオーネ神父の容態は悪化し、ブラザーシルヴァーノ・デ・ブラジオ(長いことアルベリオーネ神父の個人秘書をしていた)から知らせを受けた総長ザノーニ神父は、午後3時ごろ彼に病者の塗油の秘跡をさずけました。引き続き彼は、アルベリオーネ神父の寝室の隣の事務所にある創立者の祭壇でミサをささげました。間もなく副総会長レナート・ペリーノ神父も来て、同じ祭壇でミサをささげました。急を知ったパウロ家族のメンバーが続々と見舞いに行きました。創立者を訪れた訪問者の列は、深い感動を秘めて、言葉なく、流れのように続き、途切れることなく、むしろだんだんと大きな流れになって、最後まで続きました。

6時ごろ、アルベリオーネ神父の唇から最後の言葉として、「死にます……天国! ……皆のために祈ります!」という言葉が聞き取れました。かすかながらその唇から出た最後の言葉は、もう少し時間がたってからで、生涯の間よく口にしていた祈りで、「アヴェ・マリア! ……アヴェ・マリア! ……」という言葉でした。

9時ごろ容体が急変し、急速に悪化しましたが、一時的によくなり、11時ごろ総会長の手から最後の聖体拝領をすることができました。
病床にいた会員たちは彼にたびたび祈るように助け、短い射祷だけではなく、とくに「主の祈り」、「聖母マリアへの祈り」、「サルヴェ・レジーナ」を祈りました。

彼の聴罪司祭、ピエトロ・デルカンポ神父の訪問を受け、病者のための典礼の祈りが繰り返えされました。

意識がはっきりしたり、再度悪化したりという同じような状況を繰り返しながら、26日を迎えました。

教皇パウロ6世はアルベリオーネ神父が臨終の床にあるという知らせを受け、午後5時ごろ、私的に彼を訪問されました。その時、アルベリオーネ神父は意識のない状態でした。

その時の状況をブラザーシルヴァーノ・デ・ブラジオと師イエズス修道女会のシスターマリア・ジュディッタは、次のように述べています。

プリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父)が、意識されたかどうか判断するデータが私たちにはありません。

大きな声でシルヴァーノ修道士はプリモ・マエストロに、「プリモ・マエストロ、教皇様が祝福をしてくださるためにおいでになりました! 」と言いました。

パウロ6世は容態を尋ねられてから、ベッドのわきにひざまずかれ、そこにいあわせた人々と「主の祈り」、「聖母マリアへの祈り」、「栄唱」を祈られました。

それから、感動を覆い隠せないごようすで、彼に罪のゆるしを与え、祝福なさいました。そして、その手をしっかりと握り、続いて愛をこめて右手を彼の頭の上に置かれました。悲しいお顔で最後のあいさつをなさり、部屋を後にされました。

強い治療にもかかわらず血圧はもちこたえず、脈はどんどん弱っていきました。

教皇は深い悲しみに包まれたようすで、教皇を迎えに出ていたパウロ家族メンバーたちに祝福を与え、帰路につかれました。

創立者の容態は悪化し続け、呼吸はますます困難になっていきました。1971年11月26日金曜日18時25分、教皇が帰られてから30分後に、聖パウロ修道会総長と総顧問会一同、聖パウロ女子修道会・総長、使徒の女王修道女会・総長、総長が不在だった師イエズス修道女会とよき牧者イエズス修道女会の副総長たちの見守る中、アルベリオーネ神父は、その偉大な魂を主に帰されたのでした。

アルベリオーネ神父の遺言どおり、彼の遺体のそばには福音書とロザリオと会憲が添えられました。

彼の部屋は、パウロ家族のメンバーたちでいっぱいでした。部屋が狭かったため、入室できるだけの人々で、他の人々は隣接の書斎とか廊下にいるほかありませんでした。そして、自分の番がくるのを待っていました。

だれの顔にも別離の苦しみがありありと見えましたが、同時に一人の聖人の死に立ち会っているという意識もありました。

アルベリオーネ神父は、師イエスとの出会い、マリアとの、聖人との、そしてすでに先立って天に行ったパウロ家族会員たちとの出会いに向かって旅立ったのでした。

アルベリオーネ神父の霊的手記の中で「たびたび私は《父よ、私は子と呼ばれる値うちのない者です……。天とあなたのみ前に罪を犯しました……。私をしもべとして置いてください》と繰り返す。 私は次のような形で、このすばらしいパウロ家族に属していたいと望んでいる。しもべとして、今も、また、天国でも。天国では、現代的でより効果的な手段を使って善を行っている人々のために取りなしをしながら過ごしたいものと希望している。聖性のうちに、キリストと一致して、教会の中にふみとどまって」とあるように、これからは人間の限界に縛られることなく、天から新しい形で、もっと全面的に彼の子どもたち一人ひとりの近くにあって助けてくださるということを会員たちは感じていたのでした。

「主のため、共に世紀を生きる人々のために、何かをしようと望んだ」アルベリオーネ神父の遺産として残こされたものは、5つの修道会と4つの在俗修道会でした。 これらの遺産は、創立者自身のただの人間的経験とか経営管理の手腕とかによるものだけでなく、神からの賜物、「豊かな恵みの富」であったのです。このことはアルベリオーネ神父自身が証言していることです。

◆10-5 創立者の死


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