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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記

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第16回 ポルトガルの創設
        「3つの慰め - 福音、聖母、聖体」


1950年9月17日午後3時に、ポルトに修道院を開きたいという望みにあふれた2人のパウロの娘がリスボンに到着しました。ブラジル人のシスターナザレナ・マルティンス、シスターマリア・ニーベス・メキスの2人でした。リスボンでは、すでに1946年からこの町に来ていた聖パウロ会士たちが彼女たちを待っていました。彼女たちは10日間ほど、リスボンの師イエズス修道女会に泊まり、この国で使徒職をするために、首都で必要な手続きをする間、お世話になりました。

10日の後、彼女たちはファティマを通り、ポルトガルでの新しい創設を聖母に委ね、ポルトに向かいました。ファティマではノッサ・セニョラ・ダス・ドレス会のシスターたちのところに宿泊し、ポルトの同会の姉妹たちを紹介され、最初の宿を確保することができました。

10月2日の夕方、ポルトに到着しました。セドフェイタ通りにある、ノッサ・セニョラ・ダス・ドレス会のシスターたちに温かく迎えられました。けれども、自分たちの住む家を見つけるのは容易なことではありませんでした。15日後、スペインのドミニコ会のシスターが運営するリバプールカレッジに移り、ここに2か月間留まりました。

まず、デ・ランカストレ夫人の取り次ぎと同伴で、モンシニョールアントニオ・フェッレイラ司教様にあいさつに行きました。紹介されて行ったにもかかわらず、司教様の許可は下りず、試しとして短期間の滞在許可をくださいました。

プロパガンダの最初の日、すぐにいろいろな種類の困難や障害が現れました。外国のシスターたちへの無関心、低い識字率、経済的に悲惨な状態、団体プロパガンダへの妨げ、悪天候までが彼女たちに反対しているかのようでした。しかし、パウロの娘はこういう障害で驚くことはありませんでした。最初の2人の姉妹たちは、根気強さでは英雄的でした。

ポルトガル  

12月のはじめ、ルアド・アメアルに小さな住まいを見つけ、賃貸の契約に署名しました。ビア・テュリーナを離れて新しい「住まい」に移りました。まるで夢のような大きな喜びでした。貧しい空き家でしたが、彼女たちにとっては御殿のように思えました。家での最初の夕食の喜びは、表現しがたいほどです。

12月9日、ブラジル人のシスターディオニシア・ミケルスが加わり、小さな家に新たな喜びが与えられました。

1951年のご公現の祭日に、マエストラ・パオリーナの訪問の大きな恵みが与えられました。彼女は3日間、わたしたちと共に留まり、初期の困難に慰めと励ましをもたらしてくださいました。1月の末にはさらに2人の姉妹、ブラジル人のシスターティモテア・フェラレット、イタリア人のシスターアルフォンサ・ジェメッリが到着し、3月にはシスタードローレス・メリスとシスターパオラ・マカッリが加わりました。

こうして、小さな共同体は7人になり、現地の最初の召命について考えました。よい季節になり、3組のプロパガンディステを組んでポルトを発って、小さなポルトガルを巡り、他の教区に向かいました。一般に主任司祭とシスターたちからよく受け入れられましたが、例外もありました。一つの村では、主任司祭が警備員をおき、プロテスタントの「プロパガンダ」から小教区民を守っていました。2日後、偶然2人のパウロの娘がここを通ることになりました。人々は2人の姉妹をプロテスタントと思いこみ、決して受け入れず、少年たちまでも、棒をもって彼女たちを追い出しました。どうすることもできず、出て行くほかはありませんでした。

1951年5月、大きな恵みが訪れました。創立者のアルベリオーネ神父がリスボンのパウロ会を訪れたのです。パウロの娘が困難にあることを聞くと、疲れも省みられず、ポルトの彼女たちのところに行くために、6~7時間のトラックの旅をされました。この小さな家にどんな喜びと感謝があふれたことでしょう。姉妹たちは新たな勇気を得たのでした。アルベリオーネ神父は彼女たちを祝福し、善い行いをして家を満たすように言われました。「多くの困難があるところには、多くの恵みもある。あなた方には3つの慰めがあります。福音、聖母、聖体!」。



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