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ザビエル生誕500年記念行事 (2)

2007/01/09

フランシスコ・ザビエル誕生の500年を記念しての、上智大学主催「ザビエル500年記念行事」の第2弾をお送りいたします。

12月9日(土)と10日(日)の2日間にわたり、上智大学中央図書館9階の大会議室で、「16-18世紀イエズス会現地報告にみる『普遍主義』と『地域特性』競合の国際比較」という講演会が開かれました。9日の午前中はセッションⅠ「諸宗教間の対話とイエズス会宣教師」、午後はセッションⅡ「普遍主義と現地言語:イエズス会と言語政策」が、そして、10日(日)の午前中はセッションⅢ「文化間コミュニケーションのプロセス」が開かれました。

会場

イエズス会は歴史もあり、またたくさんの宣教師が世界各地にでかけ宣教してきました。言葉の問題は、文化・習慣の問題でもあります。状況が違うそれぞれの国で、イエズス会士がどのようにその国にとけ込み、宣教を展開していったのでしょうか。それが一つの研究として成立するのが、イエズス会のすごさです。そして、しっかりとした記録が宣教地からイエズス会本部に報告されていました。その資料が残っているのも「さすがイエズス会!」と言った感じです。当時の、それぞれの国を知る貴重な資料ともなっていることでしょう。

宣教師たちが、どのような方法でその国の人々と親しくなり、まったく知られていない神を提示していったのか、現代の福音宣教を考える上でも、興味深い内容でした。

 

セッションⅢ「文化間コミュニケーションのプロセス」

康煕帝(1622-1722)とライプニッツ—ヨアキム・ブヴェー(1656-1730)の順応政策

講師:韓琦……中国科学院科学史研究所

韓氏
韓氏

ヨアキム・ブヴェーは、他のイエズス会士とともに、シャム(ゴア)経由で中国に入り、1688年に北京に到着しました。キリスト教を宣教するとともに、フランスのルイ16世から、中国伝統医学を学ぶこともゆだねられていました。

キリスト教を中国に広めるためにとったイエズス会の宣教方法は、マテオリッチ師の“順応政策”でした。宣教師たちは、中国が文明国と分かったので、まず中国語と儒教について学びました。

ブヴェーは、まず皇帝を改宗させなければならないと思いました。キリスト教の教義は中国の古典の中にもあるということを示す必要がありました。中国の古典とキリスト教の教義が一致するところがあるということを示せば、皇帝は改宗するかもれいないと思ったのです。

易教は予言の書で、キリスト教の神秘性が含まれていました。康煕帝は、易教に非常に興味を持っていました。西洋の学問が中国の学問を土台としていることを知った康煕帝は、1689年、西洋の学問を研究するようになり、外国から中国に入る者に、易教を勉強するようにしました。こうして易教はブームとなりました。ブヴェーは、トップダウンでキリスト教が広まっていくことを望んでいました。

ブヴェーの書いたものは、今もイエズス会に残っています。易教についてはラテン語で書かれていました。

では、ブヴェーの受け入れ側である中国はどのように考えていたのでしょうか。皇帝はブヴェーのいくつかの点は受け入れました。しかし中国人がブヴェーの教えを受け入れたというわけではありませんでした。当時中国は、西洋の学問は中国に源があると思っていました。ヨーロッパの数学は、中国から発展したのだと思っていたのでした。康煕帝は、中国の皇帝の中でもめずらしい人です。皇帝の中でこれだけ学問の好きな皇帝はいませんでした。皇帝には、天を祭り、地を祭る役目があったので、皇帝をキリスト教化することは不可能だったと思われます。

イエズス会北部エチオピア布教—識字能力の観点から—

講師:石川博樹……日本学術振興会特別研究員

石川氏
石川氏

イエズス会はエチオピアで、1557年から80年間、布教にあたりました。1557年に6名、1603年~5年に5名、1620年~30年に26名のイエズス会士がエチオピアに入りました。1603年、ペトロ・マレス師は、皇帝をキリスト教徒にしました。このとき、他の多くの者が一緒に改宗しました。イグナチオ・デ・ロヨラは、エチオピアの宣教について、学校を設立し、ラテン語を習得した青年が多くなれば……と思っていました。

1580年、スペインとポルトガルが統合されました。このときまでに宣教師たちは、子ども向けの対話形式の公教要理の本をアマハラ語に翻訳していました。この本は、ポルトガルで多く利用されていたものでした。修道士たちは子どもたちにエチオピア語を教えていたのです。当時、多くのエチオピア人はエチオピア語の古典であるゲーズ語を話せませんでした。

1603年~5年に入国した5人のイエズス会士は、アマハラ語とゲーズ語を学びました。イエズス会のレジデンスは13か所に作られ、レジデンスを中心にして活動をしていました。

しかし、エチオピアでいくつかの反乱が起き、宮廷の中でも、ススネオス帝の改革に反対する者が出てきました。こうして、ススネオス帝は、エチオピア教会を認めるようになりました。

エチオピア教会の修道士は3つに別れていました。一つは宮廷にいる知識人たちで、彼らの多くはローマカトリック教会に改宗しました。2つめは普通の修道士です。そして3つ目は隠者で、彼らが反乱に加わったのでした。自分たちこそ、真のキリスト教者と思っていました。イエズス会士たちは、理解してもらうために努力しましたが、難しい状況になりました。

1634年、イエズス会士たちはゴアに追放されました。1640年、北部エチオピアにひそんでいたイエズス会士たちは、捕らえられ処刑されました。

スペイン領アメリカのイエズス会建築にみる普遍主義と地域主義

講師:横山和加子……慶應義塾大学

イエズス会は、宣教地にいくつもの教会を建てました。先の2つのお話は、宣教について、どのような方法論を持っていたかというお話でしたが、横山先生のお話は、イエズス会が残した教会の建物をとおして、彼らの宣教について見たお話でした。

横山氏
横山氏

イエズス会の建築の中に、普遍主義と地域主義を見ることができます。普遍主義というのは、自分たちが優れているということであり、地域主義は、現地の必要を考慮し、建築に地元の趣味を取り入れたものです。

スペイン領アメリカでは、マニエリズム様式からバロック様式までを見ることができます。

ジェズ様式

これは、ローマにあるジェズ教会を母体としたもので、「イエズス会様式=ジェズ様式」と言われています。各地域の建築物について、ローマにあるイエズス会本部が、こうしなさいと強いることはありませんでした。ただ、禁欲的で質素であるというイエズス会のあり方が求められており、各管区には大きな自由が与えられていたにもかかわらず、ジェズ様式が大切にされました。

宣教地では、コレジオを建てていきました。大都市に大学を設置し、高等教育の場としました。他方、小学校は町の中に建て、一般市民の子どもたちの初等教育をしました。イエズス会士たちが住むレジデンスと大学院は、一般の人も入ることのできる教会堂で結ばれていました。彼らは、先住民の若者の教育にも力を入れました。

エクアドルのキト、ボゴダ、ペルーのクスコなどの聖堂はジェズ様式でしたが、北米の教会ではジェズ様式は用いられませんでした。

これらの建築は、地元の建築家、職人とイエズス会士の共同作業で行われました。地元の参加度によって、地域教会性も強くなっていきました。

イエズス会の財力によって建てられた教会堂は、地元住民を魅了し、バロック建築が行われていく中で、特徴的な役割を果たしていきました。

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