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WCRP平和大学講座 テーマ:生命(いのち)

2007/11/07

WCRP

平和のために祈り行動する宗教者の集まり「世界宗教者平和会議(WCRP)」という世界規模の集まりがあります。昨年の夏は、京都でWCRP世界大会が開催され、“Laudate”の「シスターのこんなとこ行った」でもご紹介しました。WCRP日本委員会は、WCRP発生国として活発な働きをしていますが、その中の機関である平和研究所が設立30年を迎え、11月2日(金)、記念の式典と平和大学講座が、事務総局のある普門館の近くにある「立正佼成会セレニティホール」で開催されました。


WCRP平和研究所設立30周年記念式典


まず、WCRP日本委員会理事長の庭野日鑛氏(立正校正会会長)の開会挨拶がありました。各宗教の伝統を尊重しつつ、世界平和と文化向上に寄与するために研究所が設けられたこと、歴代の所長と研究員への感謝が述べられ、昨年京都で行われた世界大会が盛大に行われたことや来年フィリピンで開催されるアジア大会が紹介されました。

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庭野日鑛氏 白柳誠一枢機卿

その後平和研究所の30年間の歩みがスライドで紹介され、前理事長、現名誉理事長の白柳誠一枢機卿からお祝いの言葉がありました。「平和研究所は、すばらしい先生たちが集まり、研究に努力が重ねられている。現代社会は、死が支配する文明になっている」と、研究所の役割の大きさを述べられました。

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会場 休憩時間の歓談


平和大学講座 テーマ:生命(いのち)


第2部は、平和研究所設立30年を記念しての平和大学講座が行われました。「生命(いのち)-現代社会に問われているもの」のテーマで、平和研究所から4人のパネリストのお話がありました。

パネリスト、コーディネーターは以下の方々です。

コーディネーター:眞田芳憲平和研究所所長、中央大学名誉教授
パネリスト:山崎龍明平和研究所副所長、武蔵野大学教授
黒田壽郎平和研究所所員、国際大学名誉教授
薗田 稔平和研究所所員、京都大学名誉教授
山田經三平和研究所所員、上智大学名誉教授

WCRP
左から、眞田氏、黒田氏、山崎氏、薗田師、山田師

それぞれのお話をご紹介します。

眞田芳憲氏の導入

死の文明、死の文化のまっただ中にいる。暴力の最たるものは戦争である。暴力は生命を傷つけ奪うものである。イラクでは、戦争によって亡くなった人は3万2千人である。米兵は3千人ほどである。日本では、自殺者が3万人を超えた。日本も戦場である。心の戦場である。パネリストの方々に、テーマである「生命」について、お考えの所をお話し願いたい。


山崎龍明氏

平和が論じられるときほど不幸な時代はない。「生命って何?」と問われて、はっきりと答えることができない。大学生から「なぜ、死んだらいけないのですか?」という質問が出てくる。「わたしの生命だから、どうしようとわたしの勝手でしょ?」と反発される。


「生命を削る」「生命をいとおしむ」という言葉がある。「生命」と漢字で書くと、ものとして取り扱われているように感じる。「いのち」とひらがなで書くと、情的で深みのある言葉となる。いのちは尊いものであり、はかないものであり、悲しいものである。


「共生」は「きょうせい」と読むよりも「ともいき」と読ませたい。日本がアジアの人々との共生を考えてこなかったことは何なのだろうか? 「いのち」を語るとき「共生」のことまで考えて語らないといけない。イルカが港に迷い込んだら、市民みんなで「かわいそう」と思い、みなでなんとかしようとするだろう。しかし、劣化ウラン弾で苦しむイラクの子どもたちのために何かしようと思うだろうか。こういう問題のありようとは一体何だのだろうか。


黒田壽郎氏

自分から他者へ、他者から平和へ。
「ジコチュー」という言葉が流行っているが、「自己中心主義」の時代である。現代は、個人が他者と交わりにくくなっている。他者が軽視、無視されている。家族の崩壊が起きた原因は、「全ての平等」から来ている。父親の座の喪失。個が喪失してしまっている。


薗田 稔師

「生命」と書くと、生命体を思わせる。宗教者における「いのち」のとらえ方をはっきりさせる必要がある。
いのちとは、1)霊的存在である、2)いのちはつながっている、異常な殺人事件が頻発している。「いのち」のとらえ方が、どうかしている。現代の世俗化は、「いのち」を物化(ものか)してしまっている。その中で人間が喪失している。いのちを3人称で語っている。それこそが真実であると思っている。「いのち」を「事(こと)」としてとらえる。生きることは自分にかかわること、3人称では語れないはず。


西欧文化では、「いのち」をものとして、客体としてとらえている、日本は「いのち」を「こと」としてとらえている。「もの」だったら、部品を交換すればいいのだと考えるようになる。互いが互いを補い合い、助け合っている。物を作って、悪くなったら取り替えればいい」ということではない。人間を「こと」としてとらえると、生きることの矛盾に気づき、いのちについて考えるようになる。生きること、殺すこと、死ぬこと……は、事実の問題ではなく、リアリティーの問題である。物化せず、「こと」としてとらえる。


神道では、いのちを家族の中でとらえる。親から与えられ、子・孫に伝えていく、共同体から考えるいのちである。縦系列だけでなく、「何によって生かされていくか」という生物との連帯を考える。


山田經三師

「現代社会に問われているもの」という副題から「いのち」を見ていきたい。「生きる」とはどういうことか。いのちの根源はどこにあるのか。それが今の社会の中で、どうとらえられているか。


今の社会は「競争社会」である。どのくらいできるか、できないかと能力で人間を見てしまっている。競争ではなく、「共生社会」にしたい。この本質は、能力ではなく存在である。いのちはつながり合っている。比較してはならない。人間の本質は、一人ひとりのかけがえのないいのちである。


また、いのちを全うする厳かな場に立ち会い、看取ることに接することが少なくなった。いのちには2つある。「肉体的物理的いのち」と、「精神的霊的いのち」である。死ぬとき、この「精神的霊的いのち」は輝くのである。


現代社会では、「いのち」を科学的にだけ扱っている。これは宗教者として「生かし、生き、大切にする」ということから大きくかけ離れている。


自殺と他殺は紙一重である。自分のいのちへの感覚が薄れてしまっている。人々の魂、いのちの救いは何か。「慈悲」である。何もできない無力さ、その人のそばに行き、うめくことだ。


 


「いのち」が個のもとして捕らえられ、軽くみられている現代社会の中で、宗教者が語る「いのち」が、とても重要な視点を与えていると思います。一人ひとりのかけがえのないいのち、過去から未来への時間の流れの中で生きる人との連帯、同じ時代を生きる人々との連帯として、縦にも横にもたくさんの人とつながっているものです。

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