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どうしてシスターに?

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シスター ローザ・マリア・ムナリ(1)

夢で見たマリア像

シスターローザ


イタリア年にあわせて、東京ビッグサイトで行われた「イタリアまつり」のために、10年前にイタリアに帰った宣教女 シスター ローザ・マリア・ムナリが、来日しました。

今回はシスター ローザ・マリアの召命や、日本での宣教などをご紹介します。

 

シスター ローザ・マリアの出身は、北イタリアのロンバルディア州のカスト村です。  子どものとき、村にアフリカに宣教に行っていたシスターが20年ぶりに帰ってきて、いろいろと話を聞くことができました。それまでは、宣教に行っても、国に戻ることなどなかったので、こういったことははじめてでした。

このシスターの話を聞いた多くの子どもたちは、非常に宣教の心を燃やされて、500人くらいの小さなカスト村から、その年と、その翌年で、12人も修道院に入りました。

シスター ローザ・マリアも、その中のひとりです。彼女が、女子パウロ会に入ったのは15歳のときでした。

シスター ローザ・マリアは、自分が修道院に入りたいことを、村の主任神父に話していました。主任神父は、とても宣教熱心でやさしい方で、よく女子パウロ会にも、本などを買いに行ったりして、親しくしていました。

シスター ローザ・マリアの村には、女子パウロ会はありませんでしたので、女子パウロ会を知りませんでした。また、彼女は看護婦として、病気の方たちのために働く他の修道会に入りたいと思っていました。けれど、家が貧しかったため、また、町に看護婦の勉強に行くことについて心配し叔母さんが反対したため、看護婦になるための勉強が出来ずにいました。

そんなシスター ローザ・マリアに、6月にアルバで黙想会があるからと、主任神父が紹介してくださり、その汽車賃まで出してくださいました。アルバとは、女子パウロ会の母院のあるところで、北イタリアのピエモンテ州にあります。

それは、女子パウロ会の黙想会でした。6月30日の聖パウロのお祝いの日には、着衣式(修道服をいただく式)にも、参加することができました。また、『都市(メトロポリ)の宣教』という映画も見ました。

シスターの面接があり、シスター ローザ・マリアも呼ばれ、「あなたは、修道生活を考えているそうですね。この修道院に入会しますか?」と尋ねられました。彼女は、他の会に入りたかったので、「いいえ、入りません。」と答えると、シスターは、「すぐ返事をしなくていいです。“使徒の女王”(パウロ家族の特徴である、使徒の母であるマリア)の像の前で祈って来るように、その後にあなたの返事を聞かせてください」と言われました。

その像の前に行ったとき、シスター ローザ・マリアは、もう抵抗できませんでした。なぜなら、はじめて見た“使徒の女王”の像は、黙想会に来る前に夢でみたそれでした。

入会を決めて帰ると、お父さんは、「まだ16歳にもなっていないのに」と、強く反対しましたが、主任神父の説得でやっと許しをもらうことができました。

シスター ローザ・マリアが、来日したのは今から49年前の、1952年の5月2日でした。当時19歳だった彼女は、日本についてなにも知りませんでした。

まだ未成年者だったため、パスポートを取得するために、親の承諾が必要だったため、他の人より少し早く、修練者の担当のマエストラ・ナザレナから、日本に宣教に行くことを告げられました。

そのときのことを彼女はこう語っています。

 日本に行くと言われたとき、わたしはそのことより、初誓願が宣立できることがうれしくて、泣いてしまいました。日本に宣教に行くということは、間違いなく誓願が立てられるということですから。日本に行くことについては、少しも不安は感じませんでした。誓願と、宣教に行けるということで、二重の喜びでした。

入会のときに反対した、お父さんは意外にも、大変喜んでくれました。その理由は、耳の不自由だったお父さんは、とても読書家で、多くの歴史書を読んでいました。そのため、非常に村の歴史にも詳しく、日本にキリスト教が伝えられたころ、日本宣教のために来日したイエズス会のオルガノ神父が、カスト村の出身者であることをよく知っていました。

500年後に自分の娘が、カスト村の出身者として、オルガノ神父以来はじめて、日本に宣教にいくことを、彼はとても誇りに思っていたのでした。

……(2)へ続く

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