home >キリスト教入門> 山本神父入門講座> 38. イエスの逮捕とペトロの否み

山本神父入門講座

INDEX

38. イエスの逮捕とペトロの否み

聖ペトロのキリスト否認
聖ペトロのキリスト否認

苦しい祈りを終えて戻ってきたイエスは、日頃の落ち着きと力を取り戻しておられた。そして、弟子たちに言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでよい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(マルコ14章41-42節)。

ぜひ使徒たちと一緒に祝いたかった過越も無事に終わった今、イエスには逃げ隠れする理由はなかった。与えられた使命をを果たすだけである。イエスが話しておられるとき、十二使徒の一人イスカリオテのユダが群衆の先頭に立って現れ、合図の接吻をしようとイエスに近づいた。イエスは裏切ろうとしている使徒を名指しで呼ばれた。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(ルカ22章47-48節) 。自分が選んだ弟子に対する救い主の最後の呼びかけである。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・しかし今は、それがお前には見えない」(ルカ19章42節)。ユダは主の呼びかけを無視した。

弟子たちはイエスを守ろうとして剣を振るい、大祭司の手下の右耳を切り落とした。イエスは、「『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたがたはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている』」(ルカ22章51-53節) 。


ルカが描くイエス逮捕の場面が余りにもあっけなく、イエスが無力で無理やり捕らえられたように映り、自ら進んで自分を渡したことが明らかになっていないと感じたのか、ヨハネはこの場をくわしく描いている。

「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。... イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこでイエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは『ナザレのイエスだ』と言った。すると、イエスは言われた。『「わたしである」と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい』。それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。

シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ 18章3-11節)。 ヨハネは、イエスの秘められた力を示すことで、自ら進んで御自分を渡されたことを明らかにしている。


イエスを捕らえた人々は大祭司の家に引いて行った。ここでもヨハネは他の福音よりも詳しい。人々はまず元大祭司アンナスの所へ連れて行った。彼はその年の大祭司カイアファのしゅうとだった。以前、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファった。」他の福音書は、ペトロだけがイエスの後について行ったように書いているが、ヨハネは違う。「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、もう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた」(ヨハネ18章12-18節)。

ペトロはイエスを深く愛していた。どこまでも従おうと心に誓っていたに違いない。だから、一番弟子の責任感もあって彼はイエスの後について行ったのである。一緒にいたもう一人の、大祭司とは知り合いあった弟子( 多分ヨハネ) とはおかれている状況が違う。その弟子の存在がペトロをさらに不安にしたかも知れない。

屋敷の中庭では火がたかれ、人々が車座になっていた。「ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言いはった。だが、ペトロは『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22章55-62節)。

「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と真心を吐露(とろ)したのはわずか数時間前だった。その時イエスがされた否みの予告が心に刺さる。自分のふがいなさをかみしめながら、ペトロは外に出た。罪の場を去った。そして、泣いた。ペトロはイエスが彼に託した使命を覚えていた。それが支えだったのである。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章31-34節)。


その後、ペトロがどこへ行ったか。福音書は何も書いていない。彼は、イエスの言われた「兄弟」を探してそこへ行ったのである。三度も自分を否む一番弟子を、イエスは罰するでもなく、破門するでもなく、倒れて落ち込んでしまったとき、立ち直るための命綱を用意しておいてくださったのである。


▲ページのトップへ