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山本神父入門講座

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42. イエスの復活 1

復活の御堂
復活の御堂

イエスの葬りによって、イエスの死は確実なものとなった。安息日ですべてが停止したような「空白」が入った。これからどうなるのか、どのような展開があるのか。特別な事件もなく安息日は静かに明けた。

四つの福音書がそろって示すのは、イエスの墓に行く婦人たちの動きである。安息日のはじまる日没を気にしながら、あわただしく行ったイエスの埋葬が、婦人たちには心残りだったに違いない。しかし、イエスが亡くなった今となっては、悲しいことに、できることはただ一つ、お墓参りをし、香料や香油を使ってご遺体の世話をすることだけだった。今生(こんじょう)と来世を隔てる死の壁の厚さが厳しく感じられた。「だれが墓の入り口からあの石をころがしてくれるでしょうか」という言葉は、墓の石とともにその隔絶感を表していた。

そうして墓に着いた婦人たちが出会ったのは「異変」であった。墓の入り口の石は取りのけられ、主イエスの遺体が見当たらなかった。その上「輝く衣を着た二人の人」が現れて言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか」。輝く衣の人はイエスの受難の予告を引用した。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった(ルカ 24章1-11節参照) 。

ヨハネの説明を聞こう。墓に行ったマグダラのマリアがシモン・ペトロとイエスが愛しておられた弟子に、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と報告した。そこで、ペトロともう一人の弟子は、墓へ行き、遺体を包んであった「亜麻布が置いてある」のと「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」のを確認してきた。遺体強奪(ごうだつ)を疑わせる荒々しさはなく、自分で脱いだというような印象を与えた。しかし、ペトロももう一人の弟子も、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、まだ理解していなかった。空になった墓に、いつまでもいる意味はない。この弟子たちは家に帰って行った(ヨハネ 20章1-10節参照)。


イエスの遺体がなくなった。墓では輝く衣を着た人が、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と告げた。確実に何かが動いている。しかし、それが何かはつかめていない。メッセージを伝えるのが、輝く衣の人とか天使だけで、イエスご自身ではないからである。何とも言えないもどかしさが感じられる。

ペトロたち二人が家に帰ってしまったあとも、マグダラのマリアはお墓に戻って泣いていた。なぜ泣いているのかと言う天使の問いに、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」とマリアは答えた。「こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは園丁(えんてい)だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります』」。マリアはイエスの死を確信していた。だから遺体がなくなれば、どこかに置いてあるはずなのである。だからマリアはイエスの遺体を捜していたのである。その時、聞こえるはずのない言葉が聞こえた。「マリア」とイエスがマリアを呼ばれたのである。

「彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ、父のもとへ上って (のぼって) いないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。“わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る”と』。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(ヨハネ 20章11-18節 参照)。


復活にイエスとマグダラのマリア
復活にイエスとマグダラのマリア

状況が急展開した。イエス、十字架上で確かに亡くなって、墓に葬られたあのイエスが生きておられるのである。

イエスは自分はどこかに置かれたのではなく、自分で生きていることを示された。その根本的な事柄は明らかになったが、まだ不明なことがたくさんある。イエスは生きておられるが、どこにおられるのか。亡くなる前とはどこか異なる何かがある。マリアは面と向かってイエスと話したのに、イエスであることに気づかず、園丁だと思った。そして、それからすぐ、今度はイエスが「マリア」と呼ばれると、彼女はその呼掛けでイエスだと分かった。

イエスのマリアへの対応も変わった。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」マリアを拒んだわけではないが、かと言って、「もう離さない、いつまでも一緒にいたい」などとは言わせない何かがある。「まだ、父のもとへ上って (のぼって) いないのだから」。イエスの関心は、マリアが懐かしんでいる、受難前のイエスとの関係にあるのではない。天の父のもとへ上るということにある。そのために、マリアはイエスからメッセージを伝えるものとして派遣される「わたしの 兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』」と。


イエスの死がもたらした闇が晴れようとしている。日の出を仰ぐ雰囲気である。福音記者たちは、「三日目」の動きを静かにゆっくりと描いている。マタイ、マルコ、ルカも、ヨハネとともに「生きている」イエスの言動を描いている。期待と希望のうちに、昇る日の光が大きくなるのを待とう。


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