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教会カレンダー

A年 年間第9主日

第1朗読 申命記 11章18、26~28、32節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 3章21~25a、28節

福音朗読 マタイによる福音書 7章21~27節

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復活のキリスト

典礼上の大きな季節が終わり、今日から年間主日が再開されます。
 第1朗読には旧約聖書、第2朗読には使徒書、福音書は今年A年は、マタイ福音書が読まれていきます。

今日の典礼は、救いに導く信仰、いのちに導く道とは何かについてです。
第1朗読では、二つの道、祝福と呪いの道について述べる申命記が朗読されます。
福音書では、山上の説教の結びが読まれます。天の国は「天の父の御心を行う者だけが入る」ことが告げられます。
申命記も山上の説教も、新しい時代の生き方について述べられています。

情報があふれ散乱している現代こそ、識別が必要とされている時代はありません。
初代教会は当時のさまざまな混乱、ことにユダヤ教の世界からキリスト者になった人たちと、いわゆる異邦人との間におこっていた緊張感、混乱を収拾するために、起こっている出来事を神の言葉の中に読み取るように探し、識別していました。そのような中で、イエス・キリストによる救いの業の神秘を読み取っていったのです。

私たちはいろいろの試練が訪れたとき、犠牲が求められるような苦しい状況に置かれたとき、つまり「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」ようなとき、精神的な嵐にみわまわれるときに、信仰が問われることになります。そのときに求められるのは、生き方の選択、いのちの道なのか、破壊の道なのかということです。

今日の答唱詩編は、心の中の確固としたものと出会わせていだける信頼を呼び起こす信仰、希望の祈りです。このような神の言葉の中で決断していけることを希望します。ゆっくりと味わい祈ってみてはいかがでしょうか。

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第1朗読では、申命記が読まれます。今日読まれる箇所は、申命記第2部、モーセの第2の説教で、現在の申命記の原型にあたる部分と考えられています。そこには、契約の根本的精神、十戒の歴史的背景が述べられており、今日の部分はその結びにあたります。

イスラエルの民の前には、祝福と呪いがおかれ、「神の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け」るようにと命じられます。
それは、ひとえに祝福の道、いのちの道を歩むためです。

神の言葉に従うのか、従わないのか、どちらかの道を歩む決断が促されます。これこそ救いの決め手になることです。それは、心の中に分け入り、聴くならば、だれでもがわかることです。しかし、決断が求められます。一人ひとりが自らの中で神の言葉を受け入れるだけでは十分ではありません。実際の神の言葉を生き抜くことが求められるのです。

今日のみ言葉は実に明確です。
あなたはどちらの道を決断するのでしょうか。

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第2朗読はローマの信徒への手紙です。A年の年間第9主日から24主日までの使徒書(第2朗読)は、継続してローマの信徒への手紙の主なる箇所が読まれます。

聖パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業をとおして、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と述べます。

彼は「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と書いた後に、救いの約束は律法でない別の道、イエス・キリストにより、彼への信仰によって成就されたと述べます。

パウロは、人はだれでも罪のもとにあること、救いが必要なこと、イエス・キリストを信じる人はだれでも神との正しい関係に入れられることなど、キリストの福音の核心を展開していきます。

教皇ベネディクト16世は『使徒-教会の起源』の中で、今日の朗読の結び28節を引用されながら、「パウロは、信仰がもつ根本的でかけがえのない価値をわたしたちに理解させてくれます」と述べておられます。この教皇の書をぜひお読みになることをお薦めいたします。

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今日読まれる福音は、5章からはじまった山上の説教の結びにあたる部分です。
「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」との警告の言葉ではじまる今日の福音書です。

この警告の他に、「御名によって奇跡をいろいろ行った」と言う人に、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」とイエスは言われます。

最後に、イエスは家を建てる人のたとえを語りながら、神の「言葉を聞くだけで行わない者」について「賢い人」と「愚かな人」を対比させています。

イエス・キリストへの信仰をもつとは、キリストを主として認めること、その上、その事実が口先だけに終わるのではなく、実践する必要があるということを語っています。

教会の歴史を振り返ると、神に対する豊かな信仰をもちいのちさえささげた人たち、キリストの神秘に対して神学的に深い知識に恵まれた人びと、説教者として神の言葉を語る人びと、歴史の表舞台には登場はしないものの教会を真実の意味で生かすことのできた人びとなどの他に、口先だけの信仰者の姿をも数多く見ることができます。

イエス・キリストと共に生き、後に教会の指導者となった弟子たちも、弱く、主イエスを裏切った卑きょう者でした。しかし、復活のキリストに出会った彼らは、自らのその苦い体験を痛みとして感じながらも、弱い人間から強い使徒ヘ、エゴイストから愛にあふれたあわれみの心に変容され、口先だけの信仰から、いのちをかけることのできる信仰の持ち主として変えられていきました。信仰に成長させていただいたのでした。聖人と言われる人びとは、何よりも愛に生きる信仰をもった人びとです。

私たちも、口先だけでの信仰から、愛に生きる信仰に成長できるよう、日本の信仰の先輩たち、殉教者たちの生き様をながめながらこの恵みを祈る1日としてはいかがでしょうか。

祈り

全能の神よ、
   あなたのはからいは誤りなく
   すべてを治めてくださいます。
   わたしたちを力強く支え、
   あらゆる危険から守ってください。
   集会祈願より

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第1朗読 申命記 11章18、26~28、32節

あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、
これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、(なさい。)

見よ、
わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
あなたたちは、今日、
わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、

もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、
今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、
呪いを受ける。

今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 3章21~25a、28節

ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。

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福音朗読 マタイによる福音書 7章21~27節

「わたしに向かって、
『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

かの日には、大勢の者がわたしに、
『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、
御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。
『あなたたちのことは全然知らない。
不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
岩を土台としていたからである。

わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、
倒れて、その倒れ方がひどかった。」

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