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第181回 倫理生活と宣教としてのあかし




3 倫理生活と宣教としてのあかし

洗礼を受けたすべての人は、福音宣教する義務をもっています。というと、昔のキリシタン時代の宣教師のように、また、明治時代の宣教師のように徒歩であるいは、馬であちらこちらの信者さんのお宅をまわり、ミサをたて、ゆるしの秘跡をさずけ、信仰の話をしなければならない、と思って心配する人がいますが、そんな心配は杞憂です。

今の私たちにとって、現代の教会の使命にとって、もっとも大切な条件は、洗礼を受けた人々の忠実さと、福音を述べることなのです。

人々を永遠のいのちに導くために、雄弁に、熱をこめて福音を語る人がいても、私たちキリスト者が、その福音を生きることによって、しるしとならなければ福音が伝えられても、力のないものなのです。

第2バチカン公会議の『信徒使徒職による教令』において、次のように言われています。「キリスト教的な生活によるあかしと、超自然的な精神をもって行う善業は、人々を信仰と神へ引き寄せる力を持っています」と。

わたしたちキリスト者は、キリストを頭とするその体の各部分です。そして、この私たちの集まりが教会でもあります。教会の一員である私たち一人ひとりが、成長していくにしたがって、キリストの体である教会も成長・発展していくのです。

よく、道路工事をしている側を通るとき、「ただ今工事中」という看板が出ています。あれを見ると、私はいつもこう思います。「私たちキリスト者も、キリストによって、『ただ今、あなたを建築中』と書かれているという気がします。

エフェソの信徒たちに、聖パウロは「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(4・13)。ですから、私たちがキリストに従い、キリストと共に生活をするならば、神の国の到来を早めることにもなるのです。しかし、かといって、この世に生きている私たちにとって、この社会での務めを無視することはできません。誠実に、忍耐と愛をもって、この世の務めを成し遂げるのです。この世の生活でのあかしがキリストを知らない人の心を開くきっかけにもなるのです。

最後に要約が付いています。どうぞ、ご覧ください。

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