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教会カレンダー

A年 年間第10主日

第1朗読 ホセア書 6章3~6節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 4章18~25節

福音朗読 マタイによる福音書 9章9~13節

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祝福の教会

先週から年間主日が再開されています。
 第1朗読には旧約聖書、第2朗読には24主日までは、継続してローマの信徒への手紙の主なる箇所が読まれていきます。

福音書は今年A年はマタイ福音書が読まれ、終末の季節を迎える時まで 主の生涯と宣教生活が展開され、終末のテーマにたどり着くように導かれていきます。

この期間は、ことに日常の生活全体をもって、生活そのものを祈りにしていく、つまり、  ・み言葉はどのように生活の中に響いているか、
 ・私は何を感じるか、
 ・私の人間生活はどういう恵み、どういう問題をかかえているか、
 ・私の仕事についての考えとその感情はどうなっているか、
 などを、主日ごとに展開されるイエス・キリストの生活によって養い、祈り、生き、識別していくために使っていくということです。

年間の中で祝う祭日、祝日、記念日などは、それにアクセントをおいてくれるでしょう。
 「聖人カレンダー」を利用し、聖人の信仰生活に触れるのは、この長い年間を楽しい、有意義なものにしてくれるにちがいありません。

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今日の第1朗読では、ホセア預言書が読まれます。ホセアは、イザヤと同時代に活躍した預言者ですが、ホセアはイザヤとは異なり北王国の出身です。

彼が登場した時、北イスラエルは混乱していました。神をしりぞけ、異教の礼拝を全面的に受け入れたことが、道徳的、政治的荒廃をもたらしたのです。

イスラエルの民は、盛大な祭儀を行うことにより、神への愛を示していると信じています。しかし、その愛は神の変わらない愛、悔い改めを切望される神への愛に対して、なんとむなしいことでしょうか。

「わたしはお前をどうしたらよいのか」、聞き分けのない民に対して裏切られた神の愛ゆえの怒りと、悲しみが伝わってきます。

ホセアは、犠牲そのものを無価値としているのではありません。犠牲、それが象徴するいつくしみと神への知識を欠くときに、むなしいものになると言っているのです。

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第2朗読では、ローマの信徒への手紙が読まれます。この中で、パウロは、アブラハムを例にあげながら、私たちを救いに導く生きた信仰がどのようなものかについて 説明しています。

アブラハムにとって、神は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」た方であり、「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方」だと、確信していたのです。

神に「義と認められた」アブラハムの信仰は、彼だけのものではないとパウロは言います。「アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです」とあるように、アブラハムの信仰と私たちとの関係はどのようなものであるかについて述べています。
 こうしてパウロは、アブラハムが抱いていたような神の言葉への信頼、信仰へと私たちを招くのです。

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マタイ福音書では、4章17節からイエスの宣教生活の記述がはじまり、5章から7章では、山上の垂訓と呼ばれるイエスの教えが述べられ、「師」であるイエスを提示します。

8章からいやすイエスの姿が述べられ、10の奇跡の報告を3つのグループに分けています。グループの間には、弟子になる人の言葉が加えられ、今日読まれる福音は、福音史家マタイの召命物語です。

各々の福音史家には、それぞれ福音を書いたときの意図がありますが、今日の福音もマタイの意図、全体の流れの中に位置づけて読んでいくと、はっきり見えてきます。

イエスの弟子は、病める人を回復させる使命をもち、イエスは弟子を学者や知恵ある人からでなく、「罪びと」、しかも当時の人々から罪びとの代表としてさげすまれた徴税人から選ばれました。

そして、イエスはこのマタイに対して、他の弟子たちと同じく「わたしに従いなさい」と言われたのです。彼は使徒、福音史家の一人として選ばれました。しかも、マタイの家で共に食卓を囲まれたのです。

これは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われる神のみ心にかなうことなのです。

このことが「どういう意味か行って学びなさい」とイエスは言われます。ここで使われている「学ぶ(マンサノー)」という語は、聞いて学ぶ、教えを受けて学ぶという意味です。神の心を表すイエスの言葉を聞いて学ぶようにと、福音は一人ひとりを促します。

祈り

 愛の源である神よ、
  あなたはすべての人を救いのうたげに招き、
  希望と慰めを与えてくださいます。
  ここに集められたわたしたちを顧み、
  大地を潤す雨のように、
  いつくしみを注いでください。
   集会祈願より

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第1朗読 ホセア書 6章3~6節

 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。
 主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように
 大地を潤す春雨のように
 我々を訪れてくださる。」

 エフライムよ
 わたしはお前をどうしたらよいのか。
 ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
 お前たちの愛は朝の霧
 すぐに消えうせる露のようだ。

 それゆえ、わたしは彼らを
 預言者たちによって切り倒し
 わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
 わたしの行う裁きは光のように現れる。

 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 4章18~25節

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、
 「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、
 多くの民の父となりました。

 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、
 そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、
 その信仰が弱まりはしませんでした。

 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、
 むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。

 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。

 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、
 アブラハムのためだけに記されているのでなく、

 わたしたちのためにも記されているのです。
 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、
 わたしたちも義と認められます。

 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、
 わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

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福音朗読 マタイによる福音書 9章9~13節

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が
 収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。
 彼は立ち上がってイエスに従った。

 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。
 徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、
 「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 イエスはこれを聞いて言われた。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
 とはどういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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