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教会カレンダー

B年 年間第7主日

第1朗読 イザヤ書 43章18~19、 21~22、24b~25節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 1章18~22節

福音朗読 マルコによる福音書 2章1~12節

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今日の典礼では、罪の赦し(ゆるし)をとおして示される神のいつくしみをたたえます。

罪を赦すとは、罪をぬぐい去っていただくことであると預言者は教えています。

今日の福音書の記事は、病気の治癒とその罪の赦しの問題です。イエスは、病気を治しながら、罪を赦されます。こうして、罪の赦しをもたらすイエスの姿がすでにここで登場しはじめます。

罪からの解放のメッセージが告げられるや、論争がはじまっています。これはやがて十字架への道につながっていくのです。イエスのメッセージは それほどの緊迫感の中で告げられたことばでもあるのです。

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今日の第1朗読は、第2イザヤ書から読まれます。ヘブライの民にとって、歴史は「救いの歴史」にほかなりません。

今日読まれる18~19節は、9~21節まで続く長い詩の結びの部分です。

この詩の中で、神と偽りの偶像との間で長い議論がかわされます。ついで二つの救いの出来事が告げられます。その中の2番目の救いの出来事の告知は、新しい出エジプトについてであり、それが今日読まれる朗読に含まれています。

この新しい出エジプトは、恵みにみちたものであり、先の第1の出エジプトを忘れさせるほどのものです。

さらに、今日の朗読の後半部は、前半部とは異なり、神がイスラエルの民との論争をテーマとしています。今日の朗読箇所をこえてさらに読んでいくと、民に励ましを与える内容となっています。

「しかし」という導入句(22節)ではじまっているこの2番目の詩で、イスラエルの罪はあまりにも大きいので、神ご自身こそが罪を赦し、救いとなってくださることが記されています。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
 あなたの背きの罪をぬぐい
 あなたの罪を思い出さないことにする。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために」とは、とても力強く、印象的に響きませんか。このみことばで、今日の私たちに預言者は何を語っているのでしょうか。

今日読む朗読箇所の前後を読んでいくと、いっそうよく今日の箇所が理解できるでしょう。一読なさることをお勧めします。

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「神は真実な方です」という言葉で、今日の第2朗読は はじまります。

パウロは、彼とコリントの信徒たちの間に溝ができてしまったことを、コリント教会から帰ってきたテモテから知らされました。そこでパウロは急遽(きゅうきょ)コリントに船で直行しました。その訪問はパウロにとって、にがにがしいものでした。

パウロが予定を変更し、コリントの教会を訪問するのを取りやめた時、コリントの人びとは、パウロの言葉はあてにならないと言って非難しました。

この非難に対して弁明しているのが、今日読まれる手紙です。

パウロは、神のことばの奉仕者として、コリントの信徒たちに誠実さをもって振る舞っていると語っています。そのあかしは、パウロがイエスにならって行動しているという事です。

キリスト者の行動は、キリストに目を注ぐことから引き出され、その時にキリストの「はい」にあずかるものとなるのです。私たちは、キリストをとおして「アーメン」と唱えるのです。

日ごろさりげなく言っている「アーメン」を、今日は特別このような思いで、声高らかに宣言する日としてはどうでしょうか。

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今日の福音は、カファルナウムでイエスが中風の人に罪の赦しを与え、病気をいやすところが読まれます。この箇所は、マルコの一連の奇跡物語の結びとなっています。同時に、2章からはじまる律法学者やファリサイ派の人びととの論争のはじめともなっています。

イエスは、罪の赦す権能をもっていることを示すしるしとして、病人をいやされます。

ここで、神の真のイメージとイエスの権威、そして人間の救いがテーマとなっています。
 神のイメージは、あわれみと赦しであり、イエスは罪の赦しを与える権威をもっています。

「起きて……歩け」と言われた人は、起きあがって歩きはじめました。イエスのことばには、言われたことがそのとおりになる力があります。それで、「あなたの罪は赦される」と言われると、罪が赦されるのです。

人びとは「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、驚き、神を賛美しました。罪が赦されるということ、これが福音の新しさです。

私たちは、ここ数週間イエスの力強い解放を告げる福音に接してきました。イエスの力強い業には、いつも解放の現実とメッセージがあります。

今日、私たちは新たな驚きと素直な心でイエスの福音、よい知らせに耳を傾ける日としたいものです。

祈り

世界を新しい息吹で満たしてくださる神よ、
  わたしたちは主キリストに希望をおいて、ここに集まりました。
  敵意や争いを超えて互いにゆるし合う恵みを求めるすべての人が、
  キリストの愛とゆるしに出会うことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 43章18~19、 21~22、24b~25節

(主は言われる。)
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。

わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず
イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。

(あなたは、)あなたの罪のためにわたしを苦しめ
あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。
わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背(そむ)きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙二 1章18~22節

神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、
「然(しか)り」であると同時に「否(いな)」であるというものではありません。
わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、
あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、
「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。
この方においては「然り」だけが実現したのです。
神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。

それで、わたしたちは神をたたえるため、
この方を通して「アーメン」と唱えます。
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、
わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
神はまた、わたしたちに証印を押して、
保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。

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福音朗読 マルコによる福音書 2章1~12節

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、
家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、
戸口の辺(あた)りまですきまもないほどになった。

イエスが御言葉(みことば)を語っておられると、
四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻(はば)まれて、
イエスのもとに連れて行くことができなかったので、
イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、
病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、
「子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される」と言われた。

ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。
神を冒涜(ぼうとく)している。
神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

イエスは、彼らが心の中で考えていることを、
御自分の霊の力ですぐに知って言われた。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、
『起きて、床を担(かつ)いで歩け』と言うのと、どちらが易(やさ)しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

注:「冒涜」の「涜」の字は、1987年の新共同訳聖書とは異なります。

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