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教会カレンダー

C年 年間第5主日

第1朗読 イザヤ書 6章1~2a、3~8節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節

福音朗読 ルカによる福音書 5章1~11節

今日の三つの聖書朗読は、偉大な預言者と使徒の召命体験に触れています。先週は預言者エレミヤの召命について読みましたが、今日の朗読では、イザヤの壮大な召命体験、使徒パウロの福音宣教、そして初代教皇である聖ペトロの召命の場面が朗読されます。

彼らは、神からの呼びかけを聞き、呼びかける神の栄光と聖性の現れを体験します。この体験により、キリストとの出会いに呼ばれた人たちは、自分の小ささ、罪深さ、弱さ、無力さ……を感じざるを得ませんでした。

この神との超えることのできない隔たりの自覚は、徹底的に神に自分をゆだねる生き方の原点、神の恵みを告げる力となっていきます。

彼らは神の呼びかけに自由に聞き従い、すべてをかけてその使命を果たします。神の召命は、同時に派遣をも意味しています。

「召し出す」というヘブライ語は、招く、呼ぶ、自由にする、解放すると同じ言葉ということも意味深いことです。

神は、今日も私たち一人ひとりに語りかけておられます。この語りかけに、耳を傾ける日といたしましょう。

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第1朗読は、イザヤ書から、預言者イザヤの崇高な召命についてです。この記事が預言書の最初ではなく、6章に描かれているというのも特記すべき事柄であり、この後に続く「インマヌエル」について描かれる7章との関係でみていく必要があるでしょう。

彼が召命を受けたのは、「ウジヤ王が死んだ年」、つまり紀元前740年のことです。このころは、アッシリア王が北シリアの征服をはじめており、古代オリエントに大きな変革がおころうとしているころでした。イザヤは、ユダの王ヨタムとアハズ王のもとで、アッシリア問題と関わることになります。

イザヤの召命は、アッシリア帝国建設のための軍事活動に揺り動かされている当時の状況に直面しながら、預言者としての使命を受けます。この使命は、他の預言者同様、困難きわまりないものでした。

イザヤの召命は、

1~ 5節 :神の顕現
6~ 8節 :イザヤの派遣
9~11節 :使命の内容

となっています。

イザヤの召命物語は、神の崇高さと人間の小ささとが相まって描まれた見事な詩になっています。

神の栄光と聖性について天使の「聖なるかな……」の呼び交わす声が描かれていますが、これが見覚えある詩とは思われませんか。そうです。ミサの「感謝の賛歌」で歌われるおなじみの詩です。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との神の言葉に、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応えます。一人ひとり、なんと答え方が違うことでしょうか。

この神の呼びかけは、今日の私たち一人ひとりにも向けられている言葉ということができます。あなたは、どう答えますか。

* * * * * *

第2朗読は、パウロの信仰告白ともいえる箇所ですが、この箇所は、初代教会最古の「信仰宣言」の形式を伝えるテキストの一つです。

15 章は、「コリントの信徒への手紙」の頂点であるといわれており、復活をテーマとしています。その中でも今日読まれる箇所は、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と、初代教会でもすでに伝えられ、パウロ自身も受け継いだ信仰宣言です。

キリストの死と復活の信仰こそ、パウロの宣教活動の中心であり、パウロはこの復活されたキリストに出会い、召命を受けたと伝えます。この語りには、パウロの、復活したキリストへの感謝、宣教に生きる使徒の心情が見事に伝えられています。

パウロの宣教活動を支えていたのは、「福音」を「受け」、「保ち」、「伝える」ことに働かれる神の恵みへの信頼でした。彼はこれを「共にある神の恵み」と呼んでいます。

神の恵みの前に、人は小さい者であり、パウロは「栄光に輝く主」の出現を受けたことを、「月足らずで生まれたようなわたしにも現れて」くださったと語っています。そして、この超えがたい神との隔たりこそ自分自身を神にゆだねる生き方であり、神の恵みを伝える原動力となっているのです。

教会の最初から伝えられている信仰宣言をゆっくりと読みながら、2000年もの間伝えられてきたという事実、神秘を味わう一日といたしましょう。

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今日の福音は、ペトロの召し出しについて語る場面です。

ペトロの召命に関する記事は、共観福音書でマタイ、マルコも述べていますが、出来事の順序も、内容も異なっています。彼らの福音書では、イエスが宣教活動をはじめてからすぐの出来事となってますが、ルカは、不思議な大漁の奇跡の中で述べています。

大漁の奇跡については、ヨハネ福音書において(21章)は、イエスの復活後の出来事として書き記されています。ルカの今日の記事で、ペトロはイエスを復活称号である「主よ」と呼んでいるところから、ルカは弟子の召命のところに先取りした形でこの記事をおいたのではないかと言われています。

さて、今日の福音は、1~3節、4~11節の二つの段落からなっています。最初の段落では、「群衆」が登場しますが、後者では、シモン(ペトロ)とイエスとの会話に集中した形で描かれています。

夜通し漁をしても、何も捕れなかったのに、シモンは、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」イエスの願いに応えて、沖にこぎ出しました。このことから、4節からの大漁の物語がはじまります。

イエスの言葉に従うシモン

自分の力の限界にもかかわらず、イエスのみ言葉への信頼から、シモンは網をおろす決意をします。そして、み言葉どおりにして大漁を収穫しました。この大漁という出来事を通して、ペトロは、その出来事の奥にあるイエスがどんな方であるのかに気づいて、イエスの足もとにひれ伏します。

「わたしは罪深い者なのです」と言わせたこの言葉は、イエスの神々しさを見たシモンの畏敬の念を示す表現なのです。

ですから、イエスへの呼びかけも「先生」から「主」というイエスの神性を認める呼びかけに変わっています。

イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、シモンに人を生かすミッションが与えられます。

この使命は、シモンの平常の生活の中で起こったことを思いめぐらしながら、今日も神が一人ひとりに語りかけておられるみ言葉に耳を傾け、聴く日にしたいものです。

祈り

あわれみ深い神よ、
  あなたは罪深いわたしたちにいつくしみの目を注ぎ、
  ひとり子イエスのもとに導いてくださいました。
  わたしたちがその恵みを思い起こし、
  喜びと感謝のうちにあなたをたたえることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 6章1~2a、3~8節

ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、
高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。
衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上の方にはセラフィムがいた。

彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。」

この呼び交わす声によって、
神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。
その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

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第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、
ここでもう一度知らせます。
これは、あなたがたが受け入れ、
生活のよりどころとしている福音にほかなりません。

どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、
しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。
さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、
わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、
聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。
そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、
大部分は今なお生き残っています。
次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

わたしは、神の教会を迫害したのですから、
使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、
使徒と呼ばれる値打ちのない者です。

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、
わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、
わたしと共にある神の恵みなのです。

とにかく、わたしにしても彼らにしても、
このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

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福音朗読 ルカによる福音書 5章1~11節

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、
神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。
漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、
岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

話し終わったとき、シモンに、
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

シモンは、「先生、わたしたちは、
夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

そして、漁師たちがそのとおりにすると、
おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、
来て手を貸してくれるように頼んだ。
彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、
舟は沈みそうになった。

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。
わたしは罪深い者なのです」と言った。

とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
すると、イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

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