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教会カレンダー

C年 年間第14主日

第1朗読 イザヤ書 66章10~14c節

第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節

福音朗読 ルカによる福音書 10章1~12、17~20節

今日の典礼のテーマは、メシアの時代に地に注がれる平和と喜びです。

平和を意味するヘブライ語“シャローム”は、なにかが欠如したりそこなわれたりしていない状態、物事を以前の完全な状態に戻すという意味をもつ動詞からきています。そこから、無事、健康、繁栄、平安、和解など、人間の生のありとあらゆる領域にわたって真に望ましい状態を意味します。

こういう意味での平和は、イスラエルの民にとって、神の業、神のたまものです。同時に人間の側から平和をたてるために、神の業に協力する必要があります。

また、イスラエルの民のあいさつの習慣で「シャローム、お元気ですか」というときには、平和がありますようにということです。

イスラエルの歴史の中で、平和のない現実のただ中で、平和を真剣に課題にしたのは預言者たちでした。神のみ心に基づいた真の平和は、みせかけの平和ではなく、人間の不義と悪の現実に対する神のさばきと赦し(ゆるし)、救いです。

イエスは、人々の待ち望んだ平和の訪れを告げました。イエスがもたらしてくださったものは、「平和の福音」、真の平和を確立する平和の道です。

このことを体験した教会は、神の救いとしての真の平和がイエス・キリストによって実現したと宣言し、平和の使者としての自らの使命を自覚しています。

弟子たちは、平和を追い求める、平和をつくりだす努力をすること、平和の福音に従って生きるために、弱さを自覚しながらも、神の呼びかけに応えようと自分の全存在を投げ出したことを伝えています。

平和と喜び。これこそ今一番欠如し、必要な恵み、願い求めるべきたまものではないでしょうか。

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今日読まれる第1朗読は、イザヤ書66章、バビロンから帰還したイスラエルの民に、信仰再建の道を示す第3イザヤ書からです。

イザヤ書の最後の2章、65、66章は聖書の最後に書かれているヨハネの黙示録の最後の2章、21、22章と似ています。両方ともエルサレムについて、そこにあるあふれる平和、神の愛、そこに入るための資格について書かれています。

バビロンからの帰還も神殿の再建も、はじめは民の心に大きな喜びをもたらしたものの、ペルシャによる支配が終わったわけではなく、恒常的な飢餓に苦しんでいたので、神の約束された栄光は見えず、民は神の救いに対しての疑問や失望感に襲われているような状況でした。

神は、母のたとえを使って、平和が新しいエルサレムの上に、あふれるほど豊かに注がれることを、平和の使者をとおし、ご自身の言葉として告げます。

預言者は、神がエルサレムに帰還した民になぐさめと希望を与える日が到来することを信じます。彼は現状の惨めさにありながらも、神の言葉を聞いているからです。
 「わたしは彼女に向けよう 平和を大河のように国々の栄えを洪水の流れのように」とのみ言葉です。

平和への努力と同時に、平和は神のたまものであることを忘れずに祈り求めましょう。

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第2朗読では、ガラテヤの信徒への手紙の結びが読まれます。パウロがガラテアの教会を去った後、この教会は、割礼の必要を説くユダヤの人たちに惑わされます。そんな中パウロは、真に誇るべきことは何かを伝えます。

これは同時にパウロの信仰告白でもあるのです。力強く響いてきます。

……わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、
誇るものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世はわたしに対し、
わたしは世に対してはりつけにされているのです。
……大切なのは、新しく創造されることです。

キリストの十字架と、新しい創造という原理を生きることです。神の救いと平和は、神の恵みによること、神の恵みが豊かに示された十字架を誇りとして、キリストにより新しく創造されるように、パウロは主の平和とあわれみを祈っています。

「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」とは、迫害の中を生き抜いたパウロの姿です。

キリストの十字架は私たちの人生にとって何を意味するのか、問う日でもありたいと思います。

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ルカ福音書では、9章において12使徒の派遣を述べ、イエスが平和の使者として、12使徒だけでなく72人を派遣されたことを伝えています。

他の福音書と比較して、ルカ福音書が派遣について繰り返し述べるのは、ルカにとって宣教、派遣というテーマが大切なテーマとなっているからです。

祈りによって派遣された弟子たちは、この世が与えることのできない平和を多くの人々に与えるようにと平和の使者として送り出されます。しかも、イエスは彼らを旅人の姿で派遣されます。

イエスは、派遣のために具体的な指示を述べておられます。

・72人が使命をより完全にはたすための心がけ、姿勢について:
 - 収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
 - 財布も袋も履物も持って行くな。
 - 途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな。
 - その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。
 - 家から家へと渡り歩くな。

彼らの使命に対して働き人が少ないので、祈り求めなさい、信頼しなさいと、使命にまっしぐらに向かう弟子たちの取るべき態度について語られます。

・72人の果たすべき使命について:
 - どこかの家に入ったら……「この家に平和があるように」と言いなさい。
 - その町の病人をいやしなさい。
 -「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。
 -「神の国が近づいたことを知れ」と言いなさい。

彼らの使命は、神の国の到来のしるしである「いやし」であり、他には「述べ伝える」ことです。彼らの使命は、「この家に平和」と告げ、「神の国が近づいた」と述べることです。述べ伝えることが使命の中心的なことです。
 彼らはイエスが運ぶ平和を告げる使者なのです。

洗礼により使命を受けている私たちですが、平和の使者であることを意識しているでしょうか。

後半部分では、宣教に出た弟子たちが帰ってきて、イエスに報告します。イエスは、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われます。

名が天に書き記される、とは神のなさる業です。このことを心にしみこませましょう。

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エルサレムとは、伝統的に、平和の基礎、平和の所有と解釈され、町の名という以上に、神とともに平和と喜びのうちに生きる民の状態を指しています。

このエルサレムの地は、現在紛争のまっただ中、緊張の中にあります。エルサレムを取り囲む人々の歴史を一瞥(いちべつ)するなら、さまざまな時代を生き、くぐり抜けてきたことがうかがいしれます。そして、その中にいる人々は今日も真の平和を求め、叫んでいるように思えます。

今日のイエスの言葉は、平和の使者として呼ばれた私の心構えを問うているのではないでしょうか。

祈り

救いの源である神よ、
  あなたは分裂に悩む世界にひとり子を遣わし、
  平和と一致の道を示してくださいました。
  この集いに招かれた一人ひとりが、
  新しい心で救いのことばを聞くことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 66章10~14c節

エルサレムと共に喜び祝い
彼女のゆえに喜び躍れ
  彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に喜び楽しめ
彼女のために喪に服していたすべての人よ。
彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り
豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
主はこう言われる。
見よ、わたしは彼女に向けよう
平和を大河のように
国々の栄えを洪水の流れのように。
あなたたちは乳房に養われ
抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
母がその子を慰めるように
わたしはあなたたちを慰める。
エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ
あなたたちの骨は青草のように育つ。
主の御手は僕たちと共にあ(る)ことが
こうして示される。

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第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節

 (皆さん、)このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、 誇るものが決してあってはなりません。 この十字架によって、世はわたしに対し、 わたしは世に対してはりつけにされているのです。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 このような原理に従って生きていく人の上に、 つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。 わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、 あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

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福音朗読 ルカによる福音書 10章1~12、17~20節

 (そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、 御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 そして、彼らに言われた。 「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。 行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。 途中でだれにも挨拶をするな。 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。 もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、 広場に出てこう言いなさい。 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。 しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。 「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、 わたしはあなたがたに授けた。 だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

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