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教会カレンダー

C年 年間第16主日

第1朗読 創世記 18章1~10a節

第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章24~28節

福音朗読 ルカによる福音書 10章38~42節

今日の典礼のテーマは、神を自分の家に迎え入れること、神の訪れをどう迎えたらいいかについてです。

旅人に給仕するアブラハム、教会に奉仕するパウロ、イエスをもてなすマルタです。

給仕する、奉仕する、もてなすのギリシア語は、ディアコニアであり、イエスご自身も「私は仕えるために来た」とミッション宣言されました。

奉仕する心、もてなす心について祈り、内省する一日としてはいかがでしょうか。

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第1朗読は、創世記18章から選ばれています。荒れ野を行く3人の旅人、旅人の姿で現れた神を、老齢アブラハムは心をつくしてもてなし、一人子イサクの誕生を約束されました。

アブラハムは、「入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。……水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください』」と言い、食事を出します。

「走り出て迎え、地にひれ伏して」招くアブラハムの姿は、あまりにも合理的に生きている現代社会の関わりの中では、どう受け止められるのでしょうか。なにか、失ったものを呼び起こされる思いがしませんか。

聖なる場所でのこの3人の会食は、よく三位一体の交わりのシンボルとみられます。かいがいしく旅人をもてなすアブラハムの姿は、神と人との交わりのために仕える教会のかたどりとして見られています。ロシア正教会の、この場面のイコンは非常に有名です。

旅人の姿をとった神や貴人を親切にもてなし、大きな祝福をいただくという物語は、昔話によくある話です。

神の約束を得ていたにもかかわらず、子どもが生まれず、年を経ていくばかりのアブラハムとサラ、この日々はつらい信仰の試練のときでした。

神は、人間の判断では遅すぎると感じられる時期までお待ちになります。遅すぎるという中に、神の神秘を理解させるためです。

時が来たとき、つまりアブラハムはすでに老齢であり、妻サラもすでに子どもをさずかる体ではないことを知っていたときに、神はイサクの誕生を約束されるのです。

この約束は見知らぬ旅人を、神とは知らずに心からもてなしたことにより、与えられました。

客を迎えたとき、神の使いかもしれない、神ご自身の訪問かもしれないという思いは、マタイ福音書25章を思い出されます。今日、あなたにはどのような姿で神が訪問してくださるのでしょうか。

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第2朗読は、先週に続いてコロサイの信徒への手紙からです。

パウロは、コロサイの人々に自分の奉仕職とは何か、教会に仕える者となった自分の任務を告げます。

キリストの苦しみに欠けたところはないのに、パウロは、「キリストの 苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言います。
 それは、「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めを、わたしにお委ねになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」ということです。

これを告げながら、パウロはコロサイの人々に、キリストのうちに共に完成されていこうと励ましています。

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」というパウロの心、愛して苦しみを引き受けるパウロの心を味わいましょう。

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今日の福音は、先週読んだ「よいサマリア人」のたとえに続くマルタとマリアの話です。  ベタニアのマルタとマリアが、主イエスを迎え入れた記事が語られます。

ベタニアのマルタとマリアが、二人とも別の形でイエスをもてなします。「もてなす」には、歓待する、ご馳走する、世話する、面倒を見る、大事にする……などの意味があります。

マルタとマリアの二人の行いは、二人ともイエスへの深い愛の表れですが、イエスは「必要なことはただ一つだけである」と言われます。それは何でしょうか。神の前に価値あることは、ただ一つの愛、イエスの言葉に耳を傾けるということです。

教会は、イエスのお言葉に聞き入る今日の朗読をとおして、神の言葉に信頼して聞き入ることの大切さを伝えているのではないでしょうか。

神が訪れてくださる、仕えるということを心に反復し、響かせながら、「必要なことはただ一つ」といわれるイエスの言葉を味わってみませんか。
 あなたには、どう響き、あなたにはイエスはどう仕えるように招かれますか。

祈り

救いの源である神よ、
  あなたはいつもわたしたちのもとを訪れ、
  語りかけてくださいます。
  神の子として集められたわたしたちが、
  きょう語られるいのちのことばに
  耳を澄ますことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 創世記 18章1~10a節

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。
暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。

目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、

言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。

水を少々持って来させますから、
足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。

何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。
せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」

アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」

アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、
柔らかくておいしそうな子牛を選び、
召し使いに渡し、急いで料理させた。

アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。
そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

彼らはアブラハムに尋ねた。
「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、

彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、
そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。。

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第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章24~28節

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、
キリストの体である教会のために、
キリストの 苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めを
わたしにお与えになり、この務めのために、
わたしは教会に仕える者となりました。

世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、
今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。

この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、
神は彼らに知らせようとされました。
その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、
すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、
知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

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福音朗読 ルカによる福音書 10章38~42節

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。
すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

彼女にはマリアという姉妹がいた。
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、
そばに近寄って言った。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、
何ともお思いになりませんか。
手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

しかし、必要なことはただ一つだけである。
マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、
わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

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