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教会カレンダー

死者の日

第1朗読 知恵の書 3章1~6、9節

または ローマの信徒への手紙 8章31b~35、37~39節

または ヨハネの黙示 21章1~5a、6b~7節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節

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高輪教会のクリプトの十字架

諸聖人を昨日祝った私たちは、今日神に仕えて亡くなったすべての人を思い起こし、死者のための祈りを共にします。地上の「生」を超えたいのちに、私たちの心を開かせてくれるのが今日の典礼です。

死者のための祈りが典礼の中に現れたのは、3世紀のはじめ、カルタゴにおいてです。しかし、死者のために祈る習慣は、初期キリスト教の時代からあり、4世紀には東方教会に、8世紀には西方教会において、ミサの奉献文に取り入れられるようになりました。現在の「死者の日」の起源は、998年にフランスのベネディクト会クリュニー修道院において、11月2日を帰天したすべての信徒のための記念日と定めたことによります。そして、この習慣は、だんだんと教会全体に広まっていきました。

教会は、死者のために祈ることにより、生きている人だけでなく、亡くなった人をも含む、交わりの共同体であるという考えを深めてきました。

この世を去った人々のために祈りながら、私たちは、死者の中から「復活された御子キリストに従う私たちの信仰を強め、死者の復活を待つ私たちの希望を不動のものとしてください」と祈ります。

今日の典礼をとおして、教会のこの心を味わっていきましょう。

亡くなった人のために祈る日の中心は、いつもと同じキリストの死と復活の秘義です。
 日本の教会では、日本社会にキリスト教本来の希望にみちた死生観と、祖先崇拝に福音の息吹をという心遣いから、『祖先と死者についてのカトリックの手引き』が出されています。
 この本は、葬儀やお墓のことで戸惑いや疑問を抱いたことのある方に答えてくれます。

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今日の第1朗読では、知恵の書が読まれます。

知恵の書 1~5章は、知恵と人の行く末について論じます。

亡くなった人たちはどこにいるのか、だれがこれに答えるのでしょうか。

すべての人が死ぬことについて、知恵の書の著者はまず、悪人の口を借りて、神を認めない人の考えを描写します。

それに対して、2章21節から反論を開始します。知恵の書の著者が、特にここで強調するのは、義人の信仰とそれに対する報いです。

「主により頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる」と、知恵の書は告げています。

だれにでも訪れる死、この現実を自らのうちに迎え入れることについて思い巡らす日としてはいかがですか。

アルベリオーネ神父が、聖なる死を遂げられるように聖母に祈った祈りをご紹介します。天に心を向けて祈る祈りです。

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死者のためのミサには、いろいろの聖書のテキストを選べるようになっています。今日の第2朗読のためには、ローマの信徒の手紙が選ばれています。

この手紙は、聖パウロの手紙の中で一番長いもので、16章からなっています。この手紙はまた、もっともよく聖パウロの神学思想が展開されているものです。1章 16~17に、この手紙のテーマが述べられていると言えます。この手紙は教会史において、大切な役割を担ったもので、西方教会の最大の教父アウグスチヌス、日本でも彼の著は親しまれていますが、その彼を回心へと導きました。

この手紙が組織的に書かれているとはいうものの、やはり書かれたときの具体的歴史事情があります。その辺も学びながら、このすばらしい書を読まれることをお勧めします。

今日読まれる個所は、この手紙の第2部「信仰による義(5~8章)」の締めくくりにもあたります。

今日の朗読は、「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とはじまります。「~であるならば」との条件法で書かれていますが、これは事実を強調する言い方で用いられています。つまり、神が実際に私たちに味方してくださっているということになります。

この味方してくださっている事実は、私たちの益のためであり、また、その方は身代わりとして「御子をさえ惜しまず死に渡された方」なのです。

ですから、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と聖パウロは言います。

1句1句が力強く響いてきます。この今日の朗読の個所を、私たちの信仰宣言として、何度も何度も祈ってみてはいかがでしょうか。

繰り返し宣言していくうちに、だんだんと内なる心に染みこんでくるのを感じませんか。

実に、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

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今日の福音では、ヨハネによる福音書が読まれます。

ヨハネの6章は、聖体についての章とも呼ばれます。ここで、イエスはご自分はだれか、ご自分の使命はなにかを「いのちのパン」のイメージで語り、明かしてくださっていますが、その中の1部が読まれます。

今日の福音は37節から読まれますが、イエスの言葉そのものは、35節にはじまっています。「自分は誰であるか」について35節に総括的に述べられたことを、36~40節では、それを展開しています。

イエスの語られることは明確です。イエスが「天から降って来た」のは、ご自分の意志によるものではなく、御父の意志を行うためです。イエスを見て信じる人はすべて救われます。私たちが生きるようにと、心砕く神の働きは、イエスを通してあらわにされます。

「わたしのもとに来る人をわたしは決して追い出さない」と、キリストは「終わりの日に復活させる」ことを約束されます。死を超えたいのちのあることを告げる招きの言葉です。

「わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」とは、なんと力強く響く言葉でしょうか。

今日は、この世のいのちを終えて、永遠のいのちのうちに生きている人を想いながら、キリストに結ばれている現実をも祈り、味わう1日でありたいと思います。

祈り

恵み豊かな神よ、
復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、
死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。
   集会祈願より

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第1朗読 知恵の書 3章1~6、9節

神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、
自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、
御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として
  受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。

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または ローマの信徒への手紙 8章31b~35、37~39節

(皆さん、)もし神がわたしたちの味方であるならば、 だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、 その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、 御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。 人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、 神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 しかし、これらすべてのことにおいて、 わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって 輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。 死も、命も、天使も、支配するものも、 現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、 他のどんな被造物も、 わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、 わたしたちを引き離すことはできないのです。

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または ヨハネの黙示 21章1~5a、6b~7節

(わたしヨハネ)はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 すると、玉座に座っておられる方が、(言われた。)「見よ、わたしは万物を新しくする」わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節

(そのとき、イエスは人々に言われた。)父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。 わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 わたしが天から降って来たのは、 自分の意志を行うためではなく、 わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、 わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、 終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、 子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

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