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教会カレンダー

A年 年間第25主日

第1朗読 イザヤ書 55章6~9節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章20c~24、27a節

福音朗読 マタイによる福音書 20章1~16節

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今日のテーマは、神の道、つまり人の常識をはるかに越えた神の思い、その豊かなあわれみです。

聖書は、いろいろのことをとおしてこの点を語りますが、今日の朗読箇所は、その代表的なものでしょう。

神の思いと人の思い。あなたはどういう思いをもっていますか。それに対する神の思いはどういうものであると伝えていただいているのでしょうか。

今日の典礼は、神の見方、神の視点といったものを気づかせてくれます。神の恵み深さは、私たちの思いを言いようもないほどに越えるものです。

使徒パウロはその手紙の中でこう祈っています。
  わたしは、こう祈ります。
  知る力と見抜く力とを身に着けて、
  あなたがたの愛がますます豊かになり、
  本当に重要なことを見分けられるように。
     (フィリピの信徒への手紙 1.9~10)

 

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今日読まれる第1朗読は、「第2イザヤ(40~55)」と呼ばれているものです。「第2イザヤ」は、「しもべの歌」によって、苦しみの意義を説明します。*1) 捕囚(ほしゅう)故に自信を失ったイスラエルの民を、信仰にとどまるように励ます書です。

バビロン捕囚は、イスラエルの信仰に大きな衝撃と不安を与えました。それは、神が約束されたこと、信仰を支える目に見える保証である王や土地、神殿なども、すべて消え去ってしまったからです。

預言者イザヤは、人の目には絶望と見えることの中にも、神が豊かな思いを示してくださっていることを見きわめ、神の思いと人の思いの間は、天と地のへだたりがあると言います。なぜ、捕囚にあったのか、なぜ、外国の王によって救われるのかとつぶやいてはいけない、神の思いは人の思いとは違うのだからと。

イザヤはどのような中にあっても、神が平安と永遠の契約を約束されたことを信じ、最後まで勧告を忘れません。「主を尋ね求めよ」と、いつくしみ深い神を求めるようにと勧めます。

「わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる」に用いられている「豊かに赦す」という言葉は、イザヤがここだけに用いている言葉だそうです。

神の思いと人の思い、神のなさり方と人のやり方……「神の思いははかりがたい」ことは、聖書にも描かれていますし、私たち各々の歴史でも経験していることでしょう。また、今日の世界の情勢をどう私たちは読んでいくのでしょうか。あなたの立っている視点はどこでしょうか。

人生の出来事を読むにあたって、どの視点に自分の身をおいて見分けていくのか、識別する知恵の賜物を祈り求めたいものです。

「天が地を高く超えているように
  わたしの道は、あなたたちの道を
  わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」
 のですから。

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先週まで読んできた「ローマの信徒への手紙」が終わり、今日から「フィリピの信徒への手紙」が読まれます。聖パウロは牢獄から、この手紙を送っています。

キリストに結ばれているが故に獄中にある聖パウロです。「生きるにも死ぬにも」との言葉から、死刑を覚悟しているパウロの緊迫した事態がうかがい知れます。

フィリピの教会は、聖パウロの第2次宣教旅行(使徒言行録 16.12~40 参照)のとき、50年ごろに創設されました。

パウロ、シラス、テモテはそこを去りましたが、ルカはとどまりました。

フィリピの教会は、苦しみにあい、分裂の危険も幾分あったようです。
 パウロは、遺言を託すような思いで、愛するフィリピの信徒たちに、自分にとって大切なこと、つまりキリストとその福音について述べます。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」とのパウロの言葉を、私たちへの遺言の言葉として受けとってみたらどうでしょうか。

その視点で毎日の出来事を受けていくとしたら、私にとって「生きるとはキリストである」という宣言は、私の生活をどのようなものにするでしょうか。

「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」とのパウロの願い、希望を私たちのものとして祈っていきたいものです。

* * * * * *

今日は、イエスが話された「ぶどう園の労働者」のたとえです。なにかひっかかるイエスの話です。みなさんは、いかがですか。

イエスの時代、ローマ支配のもとで、都市化と貨幣経済が推し進められていくとき、今日の福音に描かれた状況は、特別な状況ではなかったようです。

イエスご自身も職人として、ナザレから働きに出たといわれています。きっと、たとえに出てくるような労働者を雇う状況を、目にしておられたのでしょう。

そのような中で、イエスは労働の時間、量に応じて支払われるという社会の枠組みに対し、それのみでは とらえられない別の価値観があることを、今日のたとえで提示されているのでしょうか。

フランシスコ会の本田神父が、『小さくされた人々のための福音』と称して、聖書を翻訳するとき、言葉のもつ意味を選ぶのに、その言葉の「意味のはば」について、どれだけ原著者自身の思い、視座を共有できるかについて書いておられます。彼は、視点をあらたにした神学にもとづく翻訳、つまり底辺に立ったという視座にたって聖書を読むことができたらと、翻訳を試みられ、出版され、多くの人びとから愛読されています。

今日の福音を『小さくされた人々のための福音』から読んでみると、「なぜ、一日中なにもしないでここに立っているのか」という主人の言葉は、別な響きをもってきます。

個人の救いや良心の問題に視座をおくだけではなく、どこに視点をおいたらいいのか、とイエスが示してくださる視点に、自分の視座を移してみることが呼びかけられているのかもしれません。

それは、日本の教会が自らの視座を移そうと試みていることでもあります。今、この視点から福音書を読み直してみませんか。


注:

*1)捕囚:
 捕囚とは、紀元前587年、バビロンの王、ネブカドネザルがエルサレムを攻略し、神殿を炎上させ、王、祭司、官僚、廷臣など指導的立場にある人びとをことごとくバビロンに連れ去ったことをさしています。
 この捕囚は、538年ペルシャ王キュロスがバビロンを征服し、イスラエルを解放するまでの約50年間続きました。

祈り

 ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
   あなたは愛のおきてによって、    すべてを完成に導いてくださいます。
   わたしたちが互いに愛し合うことによって、
   人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 55章6~9節

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。

天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。

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第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章20c~24、27a節

生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと
切に願い、希望しています。
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、
どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

この二つのことの間で、板挟みの状態です。
一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、
この方がはるかに望ましい。
だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

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福音朗読 マタイによる福音書 20章1~16節

「天の国は次のようにたとえられる。
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。
主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、
『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、
最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、
この連中とを同じ扱いにするとは。』

主人はその一人に答えた。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。
それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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