教会カレンダー
A年 年間第27主日
第1朗読 イザヤ書 5章1~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節
福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節
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第1朗読 イザヤ書 5章1~7節
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘に
ぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
わたしはこれを見捨てる。
枝は刈り込まれず
耕されることもなく
茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節
(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
終わりに、兄弟たち、
すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、
すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、
また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、
見たことを実行しなさい。
そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節
(そのとき、イエスは祭司長や長老たちに言われた)「もう一つのたとえを聞きなさい。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、
見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、
僕たちを農夫たちのところへ送った。
だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、
一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、
主人は自分の息子を送った。
農夫たちは、その息子を見て話し合った。
『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼らは言った。
「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、
ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
イエスは言われた。
「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、
それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
今日のテーマは、神の国の実を結ぶということです。
ぶどう畑のたとえは、イスラエルの人びとにとって非常に分かりやすい、親しみやすいものでした。ぶどうの木は、選ばれた民イスラエルをかたどるたとえでした。
今日読まれるイザヤ書の詩の帰結は暗示されているだけですが、これに基づいて書かれた福音書では、はっきりと結論が述べられています。
あなたにとって、実を結ぶとは、どういうことでしょうか。
使徒書を含めて 今日の朗読を読んでいくと、分かってくるのではないでしょうか。
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今日読まれる箇所は、第1イザヤ(1~39章)に属します。私たちが、通常預言者イザヤと言っているのは、ここに登場してくるイザヤです。
預言者イザヤが活躍したこの時代、小国家ユダは、二大政治勢力であるアッシリアとエジプト圏にはさまれ、どちらにつくか、たびたび決断を迫られました。そして、その度ごとにイスラエルは、国家の危機を招いたのです。
イザヤは召命のはじめから、民が悔い改めないことを見通していました。ですから、社会の不正を糾弾する神の厳しさと審判は、不可避であると主張して止みませんでした。彼より少し前に活躍した預言者アモス同様、農民を圧迫する貴族や富裕者のおごりに対する怒りの激しさは、彼も変わりませんでした。
イザヤは富裕者ばかりか、土地をもたない社会の貧しい、弱い人びと、寡婦や孤児たちの運命にまで、彼の関心事を広げ、神の審判と救いについて身をもって預言しています。
今日読まれる「ぶどう畑」のたとえは、イスラエルの人びとに親しみやすい、分かりやすいものでした。ぶどうは、イスラエルにとって、オリーブやいちじくと並んで代表的な果実だからです。
ぶどうの栽培には手がかかりますが、それだけ収穫は大きな喜びをもたらすものです。
ぶどうを植え、丹精こめて育て、収穫を待つ人びとの姿にイザヤは、神の民に対するいつくしみを見ていたのです。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を」とはじまる今日の朗読をゆっくり読みながら、イザヤを通じて示される神の姿を観想してみましょう。
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今日の第2朗読の中に、「すべて」という言葉が6回も反復され、その後に2つの項目があげられています。
8つの項目全体で、パウロは何を言いたいのでしょうか。
パウロが去ってから、フィリピの教会にユダヤ教の習慣を押しつけようとする人びとが入り込んできたのを知ったパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。
彼は、救いが、キリスト・イエスのうちにあるという福音にとどまり続けるようにと励ますのです。
パウロの手紙を読むときに、彼の心の遍歴をたどりながら読んでいくと助けになるでしょう。
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今日の福音は、「もう一つのたとえを聞きなさい」と、先週の「二人の息子」のたとえに続いて語られたたとえです。
ぶどう畑を貸し与えられた農夫たちの、残虐なふるまいが目立っています。主人から送られてきた僕たちを「捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」のです。農夫たちの非道さは不自然なくらいですが、当時のガリラヤ地方は外国の支配下にあって、外国の地主のもとに農民たちは搾取されていたのですから、貧しい生活に耐え、屈辱に甘んじた生活をしていたことを思うと、農民たちの敵意と残虐の心はありえるでしょう。そしてこれは、イエスを十字架の死に追いやった人の姿でもあるのです。それをイエスは、律法学者、長老、祭司たちの中に見ていたのでしょう。
イエスはこの姿を指摘し、さとしてきましたが、これは彼らに理解されませんでした。彼らは、自らの正当性に何の疑いももっていません。むしろ、イエスの教え、考え方、態度こそは、彼らが長いこと守ってきた伝統に対する挑戦と受け取り、イエスは自分たちの秩序を乱し、混乱させる存在として、彼らは敵意を抱いています。
イエスは、彼らがかつて預言者たちを殺したのは過去のことでなく、それと同じように、今彼の上にのしかかってくることを感じています。自分の中の残虐性に直面しないときに、それは、力で守り、抹殺するまでの形をとります。
無償で与えられた恵みを当然のように感じ、取り扱い、貸し与えられたものを自分の所有のように思いこむ、それを守ることのみに終始する、このような姿勢がイエスを十字架につけるまでになっていきます。
神の国は約束の民から取り上げられ、実を結ぶ民に与えられるというのです。
このたとえは、マルコ(12.1~12)、ルカ(29.9~19)にも書かれています。
時、僕(しもべ)の数、息子の送られたとき、たとえの帰結……などに微妙な違いが浮かび上がってきます。この機会に比較しながら読んでみてはいかがですか。
祈り
全能永遠の神よ、 あなたの恵みは限りなく、 人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。 わたしたちを罪の重荷から解放し、 まことの自由に導いてください。 集会祈願より
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