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教会カレンダー

聖木曜日

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節

第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節

福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

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聖香油(せいこうゆ)のミサ

今日は、聖なる過ぎ越しの3日間の第1日目、聖木曜日です。この日、午前中は各司教座聖堂において聖香油のミサがあります。司教は司祭団と共同司式のミサを行い、その中で司祭団は司教の前で司祭叙階の日の“司祭の約束”を更新します。

 「キリスト」とは、油注がれた者という意味です。旧約聖書では、王、祭司、預言者が注油を受けていました。イエス・キリストは新約の唯一の大司祭、預言者、王として、油注がれた者=キリストとよばれます。

私たちも洗礼、堅信のときに、聖香油を受けます。また、司祭が叙階されるときにも用いられます。

このミサで、洗礼志願者の油、病者の油が祝福されます。

このミサで読まれる朗読は下記のとおりです。
 ・第1朗読:イザヤ 61章1~3a、6a、8b~9節
 ・第2朗読:黙示録 1章5~8節
 ・福音朗読;ルカによる福音 4章16~21節

主の晩餐(ばんさん)の夕べのミサ

「主の晩餐の夕べのミサ」から「聖なる三日間」がはじまります。この「聖なる過ぎ越しの三日間」は、典礼暦の頂点です。

「主の晩餐の夕べのミサ」は、最後の晩餐を直接記念するものとして、必ず夕方に行われます。主の晩餐を木曜日に祝った最初の記録は、4世紀後半です。

古代エルサレムでは、このミサが終わると、一同、家に帰って食事をすませてから、今度はオリーブ山に集まり、真夜中になると、主が捕らえられた場所へ移り、そこで聖書の記事を読み、主の受難を思い起こして泣いたと伝えられています。

聖地エルサレムでは、その日、そのときにふさわしい聖書の箇所を朗読するだけではなく、そのとき そのことが行われた場所に集まることができたのです。今でも聖週間には、聖地エルサレムにたくさんの巡礼者が訪れ、あのイエスの出来事を再現しながら過ごしています。

教皇ヨハネ・パウロ2世が出された回勅『教会にいのちを与える聖体』『主よ、一緒にお泊まりください』という使徒的書簡などで、“聖体”について読み、深めることをお勧めいたします。

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第1朗読では、出エジプト記12章が読まれます。
 この箇所は、ユダヤ教最大の祝日、過越祭の行い方について述べられているモーセの言葉です。今日読まれる箇所とその後21~23節に記されている儀式は、旧約聖書にいろいろと書かれている過越祭のうち、最古の形を反映したものということです。

モーセは、イスラエル全会衆にこの祝日の儀式と意味を説明するように、神からのいのちを受けます。

厳密な意味でのイスラエルの歴史は、出エジプトの時点からはじまるわけです。イスラエルの宗教暦は、過越祭を祝うことが新年の第1月となります。この月は “アビブの月”と呼ばれ、“穂の月”の意で捕囚後は“ニサンの月”と呼ばれました。この月の14日の夜にこの祭りが祝われました。

式の次第は、その夜、家畜の群れに神の祝福がくだるように、いけにえの動物には傷のない雄の羊かやぎが選ばれ、当歳の動物が主にささげられました。その血は、神の保護のしるしとして家の戸口に塗られ、一家族全員がその肉を旅のいでたちで、種なしパンと苦菜と一緒に急いで食べるのです。

この式が主の過ぎ越しであると言われます。過越祭は、モーセの時代やエジプト脱出以前にさかのぼると言われますが、この祭りに決定的意義を与えたのは、エジプト脱出の出来事です。

この過越祭の出来事は、「主の過越」のかたどり(Ⅰコリ 5.7 参照)として新しい意義をおび、キリストの血によって、罪と死の束縛から解放される真の過ぎ越しの小羊として、十字架上のキリストのいけにえを意味するのです。

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第2朗読では、使徒パウロのコリントの手紙から読まれます。
 今日の朗読は、「わたし自身、主から受けたものです」とはじまります。つまり、主キリスト自身に由来していると言います。

聖体祭儀制定については新約聖書に四つの記述があります。コリントの手紙は4福音書よりも早く書かれたものなので、今日の朗読で読むイエスの言葉の記録としてはもっとも古いものと言えます。

また、教会の聖体制定の儀式の正当な理由もここに見いだすことができます。
 その意味でも今日読まれるために最もふさわしい聖書と言えるでしょう。

「わたしの記念としてこのように行いなさい」とのキリストの命令を、パンと葡萄酒の両方で繰り返しているのは、パウロのみです。

聖体の儀式は、「新しい契約」と書かれているように、神と人との古い契約は、律法に基づくものでしたが、「新しい契約」は、イエス・キリストの血によって立てられたものです。

パウロは、キリスト者共同体における聖体祭儀の深い意味をはっきりと述べています。つまり、彼によると、聖体祭儀は、私たちの罪をあがなったキリストの死と終末における栄光に輝く主の来臨という過去と未来の両方に関わっていると言います。

ですから、ふさわしい状態で「主のパン」を食べ、「主の杯」を飲む必要があるのです。

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主の晩餐の夕べのミサでは、ヨハネ福音書による最後の晩餐の最初の部分が読まれます。その箇所は、イエスが受難と復活によって栄光の主になったことを語る「栄光の書」の導入になっている箇所です。

ヨハネにとって、最後の晩餐から十字架の死にいたるまでの場面は、イエスの弟子に対する愛のあらわれからはじまり、その完成までのことを述べたものです。

御父のもとに移るときがきたことを知ったイエスは、群衆を離れ、静かに弟子たちと共に最後の晩さんのときを過ごされます。

   イエスは、この世から父のもとへ移る御自分のときが来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

「愛する」「この上なく(限りなく、終わりなく)愛された」、非常に心に響く言葉として中に入ってきます。十字架を前にしてイエスが、ますます愛高まったさまが描かれています。

イエスは愛のきわみをあかすために、弟子たちの前にひざまずき、彼らの足を洗います。

イエスの時代、洗足はしもべの仕事でした。イエスが弟子たちの足を洗われることにより、イエスが彼らのために仕える者、命を与える者になったのです。この洗足(せんそく)式もヨハネの文脈で見るなら、洗足式はイエスの福音宣教の結び、その奉仕の最高のあらわれ、愛のきわみです。イエスの使命の本質を示すものなのです。

この日、教会では「洗足式」が行われますが、これは、4世紀ころ西方の教会で、洗礼式との関係ではじまったものです。また、人を受け入れる、愛のおきての実践として、修道院で客を迎える儀式としても行われていました。

今日は、この福音を何回も読みながら、心に一言ひとことを入れながら、イエスの言葉を観想する日としたいと思います。

このイエスの思いが世界中の人々の心の中にまでしみ通り、親しく交わる世界の訪れを祈りたいものです。「聖体こそ交わりを造り出し、交わりをはぐくみます」(教皇ヨハネ・パウロ2世)。この教会の交わりを深めていくのは、私たち信徒一人ひとりのつとめなのです。

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聖体拝領後、前もって準備された聖体安置所に行列をもって聖体を運びます。
 この安置された聖体の前で礼拝をすることが勧められています。

祈り

いつくしみ深い父よ、
  あなたのひとり子は死に向かわれる夜、食事をともにして、
  新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだになりました。
  この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、
  キリストの愛を受け、生きる喜びに満たされますように。
   集会祈願より

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第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節

エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。
『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、
すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。
もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、
隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、
めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。

その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。
用意するのは羊でも山羊でもよい。
それは、この月の十四日まで取り分けておき、
イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。
また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。

それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。
これが主の過越である。

その夜、わたしはエジプトの国を巡り、
人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。
また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。
わたしは主である。

あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。
血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。
わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。

この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。
あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、
代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

また、食事の後で、杯も同じようにして、
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節


さて、過越祭の前のことである。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

夕食のときであった。
既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、
また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、
「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、
後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、
上着を着て、再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。
そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、
模範を示したのである。

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