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日本キリシタン物語

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12.長崎とキリシタン文化

結城 了悟(イエズス会 司祭)

長崎 神ノ島
長崎 神ノ島

フィゲイレド神父とトロバソス船長が長崎湾を測量していたとき、1570年10月2日、コスメ・デ・トーレス神父は静かに天草の志岐で帰天した。ヴァリニャーノ神父は、この出来事について書いたとき「これで日本の教会の歴史の第1部が終わる」と述べている。

ザビエルの手から、500名の信者がいた日本の教会を引き受けてから20年後、3万人を超える教会を後継者に委ねた。トーレス神父はその教会の基礎を築き、懸命に導き、後に多くの教会の中にあって、そらの教会の頭となる教会を、新しく開いた長崎の町に開いた。

長崎の新しい港町の最初の10年間は、静かに発展していた。あるときは、深堀と諫早の西郷家の攻撃を受け、トードス・オス・サントス教会が破壊されたが再建された。1580年には、ポルトガル貿易の利益を望む佐賀の龍造寺と薩摩の島津の攻撃の危険が感じられるようになった。そこで大村純忠は武器をもって敵を制することができないとわかり、とるべき道を探し、長崎の「内町」と隣接する港を教会に寄進すると申し入れた。

1579年に口之津に着いたヴァリニャーノ神父は、他の宣教師と数回会議を開いた後条件付きで寄進を引き受け、*1総長アクアヴィヴァに報せを送った。その手紙は、長崎の歴史を記した貴重な記録である。条件とは戦などの危険があるとき、長崎を大村の大名に返すことができるということであった。大村純忠はつねに長崎の領主であった。長崎はイエズス会の知行のかたちで1587年まで続く。

同年、関白秀吉は禁教令を出すと同時に、長崎を天領に加えた。しかし、その7年間は長崎はヴァリニャーノのビジョンと法学の知識によって、明確なかたちで指示されていた。ヴァリニャーノは純忠と話し合い、長崎を治めるため新しい法律を作った。刑法と民法の区別が明らかにされ、罰則が緩和し町を統制する役人が教会から選出されるが、その権利を与えるのは純忠であった。役人は他の市民、乙名や町年寄りと協力して仕事をすすめていた。

長崎 三浦町教会
長崎 三浦町教会

1583年に新しい活動が町の精神を強めることになった。すでにルイス・デ・アルメイダによって府内に設立された「ミゼリコルディアの組」が、一市民である鋳物屋のジュスティノの手によって長崎にも始まった。ミゼリコルディアの組と呼ばれる組織は、市民の手により行われる社会福祉のことである。この町の創立の根本的な理由であって、追放された人に拠り所を与えるという目的のもとに、いろいろの苦しみや問題で悩んでいる人を援助することであった。ハンセン病で患っている人のため病院を作り、不正に捕らえられた人に自由を、難破した船の乗組員には故国に帰るための援助を、戦で捕らえられた人を釈放するなどのことをしていた。

1597年の26聖人の殉教の後、河内浦から長崎に移されたコレジョでは音楽、美術、語学、哲学、天文学などが教えられ、活版印刷によって貴重な本が発行されていた。そのすべてのうえに、岬にあった聖母被昇天の教会が司教座として市民の信仰を育て養っていた。1600年から小教区が増え、また聖フランシスコ・サント・ドミンゴと聖アウグスティノ教会も建てられた。各教会の鐘の音によって町の生活が動いていた。続く徳川の時代には、その文化の木に殉教の花が美しく開くことになった。


注釈:

*1 総長アクアヴィヴァ[1543.9.4-1615.1.31]
 イエズス会第5代総会長。
 イタリアのトリノ生まれ。ペルージア大学で法科を修めた後、教皇庁の役職に就いた。
 1567年にイエズス会に入会し、1574年司祭に叙階され、コレジョ・ロマノで哲学の教師となった。その後、ナポリのコレジョの院長、ナポリ管区長、ローマ管区長を歴任した。1581年、イエズス会第5代総会長選任され、34年間、その職を務めた。
 彼は、日本における巡察師ヴァリニャーノの宣教方法を、全面的に認めていた。

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