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第2バチカン公会議から50年

「無関心のグローバル化」の時代に公会議の精神を生きる

菊地 功(きくち いさお)

カトリック新潟司教区司教

教皇フランシスコは、教会内外でありとあらゆる驚きの源となっているようです。もしかすると、私たちは歴史の証人となるのかも知れない。そう感じるほど、新しい教皇は、伝統という固い殻を打ち破る勇気と実行力を、そして何より明確な目的意識を持って歩まれているように感じます。

毎日のミサの説教は、十分に構想を練ってから話されているようですが、そこには教皇ご自身の考えを明確に示す様々なイメージがちりばめられています。例えば「ゆるしの秘跡はドライクリーニングではない」とか、「博物館に展示されるようなキリスト者」などなど、一人ひとりの信仰者は言うにおよばず、教会組織全体に対して挑戦状を突きつけるような刺激的なイメージが毎朝のミサのときに投げかけられる、という多くの報道があります。教皇フランシスコはいったい何を私たちに求めているのでしょう。

教皇は、私たちひとりひとりに、キリスト者として生きるとはどういうことなのか、具体的な決断を迫っているのではないかと私は思うのです。教皇の、たとえば聖木曜日に大聖堂で荘厳な典礼を行うのではなく、少年刑務所で少年少女たちの足を洗いキスをするその具体的で目に見える行為は、いうなれば、信仰におけるショック療法を施して、社会の現実の中で鈍くなっている信仰の目を覚まそうとされている結果ではないでしょうか。

今月の5月16日、国際カリタスの地域代表者会議(理事会)の折に、会議参加者全員で教皇フランシスコにお会いする機会に恵まれました。

「謁見」の会場は、教皇フランシスコが住居とされているサンタマルタの家の聖堂でした。教皇はその前日に国際カリタス総裁オスカー・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿の願いを入れて秘書官に予定の変更を指示され、国際カリタスの会議参加者のために一時間を確保してくださっておりました。

さて当日、教皇は一切のテキストなしに十分ほどスピーチをされ、その後、国際カリタスの七つの各地域の代表が三分ほど、地域の活動について説明をし、私もカリタスアジアの紹介をさせていただきました。

その後もう一度、これまたテキストなしに教皇のスピーチでした。

「カリタスの活動は愛を目に見える形で具体化するものとして、教会にとって欠かせない活動である。しかし同時に教会の慈善活動は組織のことばかりにとらわれていないで、大きな心で取り組んでほしい。災害や紛争にあたって緊急援助をすることも必要だが、それだけで終わってはいけない。善いサマリア人のたとえをよく見なさい。けが人を単に救助しただけではなく、さらに宿舎に連れて行き、その後の面倒もみた。同じように教会の慈善活動も、緊急支援活動だけで終わらず、常に寄り添っていく姿勢でなければならない」

こういった内容を語られたうえで教皇は、「カリタスは人間を成長させ癒しを与えるために、周辺に行かなければならない。そして教会に優しさを持ちこんで欲しい」と述べられました。

教皇フランシスコにとって「周辺」という概念は非常に重要な意味を持っているようです。ローマ司教として最初に訪れた小教区もローマ市の「周辺」にある新しい共同体でした。また教皇としてはじめて司牧訪問で訪れたのも、地中海に浮かぶイタリア南部のランペドゥーザ島でした。アフリカに限りなく近いこの島には、多くの避難民や移民が押し寄せ、その多くが海上で生命を落としているのです。

この島でのミサの説教で「世界は無関心のグローバル化に落ちこんでしまった」と教皇は指摘されました。様々な理由で幸福を願って移民の道を選んだ人たちに、だれが手を差し伸べたのか、その境遇に、その死に、だれが涙を流したのか。そして説教の最後に、助けを求めている人々に無関心であって、自分たちの幸福ばかりを追求してきたご自身を含む人類の過ちにゆるしを願う、と述べられました。

「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、とくに、貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある」

第2バチカン公会議(62~65)の四つの憲章のうちの一番最後に採択されたのは、65年12月7日に採択された現代世界憲章でした。その冒頭にはこのように記されています。

グローバル化が激しくすすんでいる現代社会は、同時にそれぞれの国が自己のアイデンティティを喪失し、そのために社会全体が内向きになりながら自分を再発見しようともがいているように見えます。教皇が指摘される「無関心のグローバル化」も、結局は経済のグローバル化のもたらす弊害の一つであるとも言えるでしょう。現代世界憲章の冒頭に掲げられたこの一文は、現代社会に生きる私たちに「無関心のグローバル化」から抜け出すことを要求しています。そして教皇フランシスコは、自らの行いと言葉によって、私たちに、そして教会に、第2バチカン公会議の精神を生きぬくようにと呼びかけているのです。


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