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第97回 悔い改める者の行為

 
7 悔い改める者の行為
 

痛悔---

痛悔とは、罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことです。ですから、今後、再び罪を犯さないという決心を伴っているものです。

痛悔には、「完全な痛悔」と「不完全な痛悔」があると言われています。「完全な痛悔」とは、「愛による痛悔」とも言われているもので、すべてを超えて愛すべき神への愛に基づいた痛悔です。ですから、そのような神に背いて自分が罪を犯し、神から離れ去ったことを、心から悲しく感じるのです。このような痛悔をするならば、小罪のゆるしが得られ、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心があれば、大罪のゆるしも得られます。

これに対して、「不完全な痛悔」と呼ばれるものもあります。これは、「後悔」という言葉で表現してもいいものです。この気持ちが起こるということも、神の恵みであり、聖霊からの促しがあってのことです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは、永遠の罰などへの恐れから生じる「恐れによる痛悔」です。しかし、このような良心の動きによって、ゆるしの秘跡の恵みにあずかり、心が変えられる可能性があるのです。

ゆるしの秘跡を受ける準備として、「良心の究明」をするように、あつく勧められています。神の十戒や、福音書の教え、使徒たちの手紙などは、「良心の究明」をするためのよい指針となるものです。

 

罪の告白---

司祭に告白することは、「ゆるしの秘跡」の本質的な要素の一つです。真剣に究明をした後、司祭に、意識しているすべての大罪を告白しなければなりません。大罪は、人に知られているから告白するというものではありません。他人が知らなくても、罪を犯した自分が、はっきり自覚しているはずです。それらをすべて告白するのです。

「教会のおきて」では、分別のつく年齢に達した信者は、重大な罪を少なくとも1年に1度は告白するよう定められています。

小罪を告白することは、厳密に言えば、義務ではありませんが、教会は、信者に小罪も定期的に告白することを勧めています。それは、私たちの良心を正しく成長させ、悪い傾きとたたかい、キリストによっていやされ、霊的生活に向上する助けとなるからです。こうすることによって、私たちは御父の憐れみに頻繁に近づき、御父のように憐れみ深いものとなるように促されるのです。

 

償い---

罪は、罪を犯すその本人だけではなく、神と隣人とのかかわりを傷つけるものです。秘跡を受けることによって、罪はゆるされますが、罪から生じた無秩序を回復するものではありません。そのため、適切な方法で、罪から生じた無秩序、霊的健康を回復する必要があります。

償いは、適切な方法で、罪を弁済することです。罪の告白を聴き、償いを示す司祭のことを聴罪司祭(ちょうざい しさい)と言います。聴罪司祭は、罪を告白する人の個人的状況を配慮しながら、その人の霊的助けとなるように償いを科します。

償いは、その罪の重さ、性質にふさわしいものが与えられます。償いには、祈り、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、私たちが担わなければならない苦しみを忍耐深く受け入れることなどが含まれます。

罪を犯すことによって、隣人に害を与えた場合には、それを償うために、できるだけのことをしなければなりません。……例えば、人の物を盗んだ場合には、返却するなどのことを指しています。

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