home特別企画 パウロ年パウロ年 一口メモ>聖パウロの協力者たち 1

パウロ年 一口メモ

聖パウロの協力者たち 2

● マルコ

マルコは、「マルコ福音書」の著者として、ほとんどの方はご存じなのですが、パウロの協力者でもありました。

聖書を読むと。マルコの名前は福音書の中にも、使徒言行録にも、パウロの手紙の中にも出てきます。また、マルコの名前は出てこなくても、これは、マルコのことだ、と伝承されていることもあります。

最後の晩餐が行われた「高間」と呼ばれている部屋のある家は、マルコの母の家だったと言われています。この家には、イエスや12使徒たちが親しく出入りしていたと思われます。若者であったマルコは、イエスの話を聞いたかもしれません。また、ペトロからかわいがられていたので、後で、ペトロの通訳者として、一緒に宣教に行ったかもしれません。

エルサレムにあるマルコの家は、イエスが亡くなられた後、ユダヤ人たちを恐れて、鍵をかけて閉じこもっていた家であり、ここに、復活のイエスが「あなた方に平安」とおっしゃり、使徒たちと出会われた家であり、聖霊降臨を体験した家であり、初代教会の集まりの場、最初の教会となった家だと言われています。

さて、マルコとパウロとの出会いは、バルナバを介してであったと思われます。バルナバは、第1回目の宣教旅行に甥であるマルコを伴いたいと思いました。

これは、バルナバが、アンティオキアの教会が正式に宣教団を派遣する最初の記念すべき働きであるし、キプロスというバルナバの出身地に連れて行くよい機会だと思ったのかもしれません。

こうして、バルナバ、パウロ、マルコは、第1回目の宣教旅行に出発しました。キプロスでの宣教活動において、マルコがどのような活躍をしたかは書かれていません。しかし、都会っ子であった若いマルコにとって、大変な経験であったことは想像に難くありません。

使徒言行録には、バルナバとパウロがキプロス島の港パフォスから船出をし、パンフィリア州の首都ベルゲに着いたところで、マルコは「一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」(13.13)と書かれています。なぜ、帰っていったのか、その理由はわかりませんが、たぶん、小アジアの危険地帯と言われていた山地旅行を恐れたからであろうと言われています。

このマルコの帰国は、第2回宣教旅行に出発するための人選をめぐって、パウロとバルナバの激突の原因となりました。マルコを連れて行きたいというバルナバに対し、パウロは「前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた」(使徒言行録 15.38)からでした。

こうして、バルナバはマルコを連れて、キプロス島に向けて出発し、パウロはシラスと共にシリア州、キリキア州に向けて出発したのでした。

人間的に考えると、この出来事は、失敗のように思えるかもしれませんが、このような人間の衝突を通しても、神は働いてくださるのだということが、後の彼らのかかわりからわかります。
 もし、バルナバとパウロの意見が一致して、マルコを連れて宣教旅行をしたとするならば、バルナバとマルコが宣教したところには、福音は伝わらなかったかもしれませんし、あるいは、第1回宣教旅行でみことばをのべ伝えたところに、福音は根付かなかったかもしれません。
 どちらにせよ、第2回目の宣教旅行は、2グループで行われる結果になったのです。

いつマルコが再び宣教の協力者として、パウロと共に働きだしたのかはわかりません。しかし、パウロが獄中で書いたと言われている「コロサイの信徒への手紙」の4章19節には、次のように書かれています。 「わたしと一緒に補らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています」。

また、「テモテへの手紙 二」には、「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(4.11)と書いています。
 マルコが福音の宣教者として成長し、パウロの力となっていることがよくわかります。


→ パウロ年 一口メモ “もくじ”へ


▲ページのトップへ